先生のスープ

人にものを教えるということをしていたとき、伝えたはずの大切なことが、生徒の頭の中にカケラしか残っていないとか、すっかり抜け落ちているということが少なからずあった。もちろん、私の技量の問題は無視できないけれど。

 成果の乏しい授業のあと、肩を落としてため息をつく私を見て、上司が、「伝えたことのうち、生徒の頭に残るのは3パーセントなんだよ」と言い、だからこそ大切なことは繰り返し伝えなきゃだめなんだ、と教えてくれた。数字の真偽は不確かだが、そのとき、私は少しなぐさめられた。そうして、近くにいた同僚に「ねえ、伝えたことのうち、生徒の頭に残るのは3割なんだって」と伝達した。それを聞いていた上司は苦笑しながら「3パーセントだよ」と訂正した。ただの不注意かもしれないし、3パーセントなんて少なすぎるだろうと私の何かが判断し、無意識に勝手な情報操作をしたのかもしれない。私は照れ笑いして、3パーセントでしたか、とつぶやき、受け取る側としての脇の甘さに恥じ入った。 

 あるとき、テレビの特集で人気の料理研究家をとりあげていた。昭和のおばあちゃんを彷彿とさせる品のよさそうな先生が伝授するスープの作り方がウケていて、料理教室は常に満員で予約が取れないらしい。

 おばあちゃん先生のスープは、スピードや手軽さとは無縁だ。せわしない日々の流れにのまれることなく、手間ひまをかけてつくる。自然の恵みである食材のうまみを活かし、ていねいに、ていねいに。一滴、一滴、エッセンスを絞るようにして出来上がるスープ。

 このスープに魅力を感じ、その作り方を学びたいという人々が押し寄せる。テレビには、オープンキッチンでスープの作り方を実演しながら説明するおばあちゃん先生と、会場を埋め尽くす人々が映されていた。

「手間ひまを惜しんだらだめですよ」と先生は言い、生徒たちは熱心にメモを取っていた。彼らは、席を取れたラッキーな人たちである。

 スープが出来上がり、その美味しさに舌鼓を打ち、和やかな雰囲気で料理教室が終わりに近づいていた。満足げな先生が「何か質問はありますか」と問いかけたとき、40代後半ぐらいの主婦らしき女性が手を挙げた。たくさんメモを取ったのであろうノートを胸に抱えながら、その人は興奮ぎみに、先生のファンであること、今日の料理教室に参加できて感激していることを述べたあと、質問した。

「朝は忙しくて時間がないじゃないですか。だから簡単にチャチャチャっとできる出汁の作り方があったら教えてください」

 にこやかだったおばあちゃん先生の表情が固まり、わなわなと震え出したのが画面越しにも伝わってきた。

「あなたは何を聞いていたんですか。そんなことを求めているなら、キャンセル待ちの人に席を譲ってください!」先生は声を張り上げた。

 控え室に戻ってきた姿も映し出されていたが、おばあちゃん先生は腹の虫が治まらない様子で不機嫌だった。

 ああ、世知辛いなあと思った。どちらか一方だけでは成り立たない。

 どう伝えたらいいのか、についてしばしば考えるが、どう受け取られるか、については、伝え手の裁量だけではまかないきれない部分がある。受け取る側にも相応の才量は求められるのだ。だからこそ、どう伝えるべきか、ということに思いをめぐらせるのだけれども。そしてまた、受け取ること、についても同様である。

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