薄水色の空

その日の夜、私は上野の焼き肉屋で友人と飲んでいた。焼酎も3杯目のおかわりをした頃、ふと脇においたバックに目をやるとケータイが光っていて着信に気づいた。母からだった。急いで出ると、祖父が亡くなったことを告げられた。詳しいことはまた後で連絡するからと言って電話は切れた。

  lgi01a201406080700祖父は少し前に退院してしばらくは元気で意識もはっきりしていたのに、再び入院になって2日後には娘である母のことも分からなくなり、食べることもできなくなった。祖父に忘れられてしまっていたら耐えられるだろうかと不安ではあったが、翌週には帰省して会いに行くつもりでいた。 朝に母から祖父の容態が安定していると聞いて安心していたところだった。

 友人に祖父が亡くなったことを伝え、もっと早く会いに行っていればよかった、とつぶやくと、「何をしたって後悔は残るんだよ」と父親を亡くしている友人は言った。

 なんだかひとりになりたくなくて、もう一杯、もう一杯と友人を付き合わせ、店をあとにした頃には空が白み始めていた。タクシーをつかまえて帰宅し、部屋でひとりになると泣けてきた。ベッドに突っ伏して、声をあげて泣いた。

 祖父が元気だった頃は、家に遊びに行くと「これ、持っていけ」と自分が作った野菜をたくさん持たせてくれたり、ご飯を作ってくれて「ほら、食え」と出してくれたりした。働き者で寡黙な人だった。

 長生きしてよと言うたび、お前が嫁に行くまでは死ねない、と祖父が言い返すのが長年の私たちお決まりのやり取りだったのに、祖父は逝ってしまった。少し前に見舞ったとき、「まだ私は嫁に行ってないんだから、元気になってよ」と言うと、祖父は「がっかりしちゃう」とまるで泣くようなふりをして右手で顔を覆った。励ますつもりだったのに予想外の反応に胸が痛んだ。私は祖父の望むようには生きられない。そのことを申し訳なく思った。でも、ひょっとして祖父は分かってくれていたのだろうか。時間が経って、あれは祖父なりのおちゃらけだったのかも、などという気がしないでもないが、いくら考えてみても、その場にいた母に聞いてみても、未だに分からない。

 祖父の亡きがらと対面して、その穏やかな顔に安堵した。納棺のときも、お葬式のときも、火葬する直前も、最後の言葉をかけてくださいと言われるたびに思いをめぐらして言葉を探してみたけれど、「ありがとう」しかなかった。

 火葬の間、私たちはお茶を飲んだり、おにぎりを食べたりしながら終わるのを待った。祖父の曾孫にあたる従妹の幼い子どもたちが走り回っているのを眺めていると、祖父からその子たちにつながる系譜が凄いものに思えた。

 火葬が済んで拾骨室に入り、お骨になった祖父を見たら、まるでカチリッと音がしたように私の中で区切りがついた。隣にいた叔母と「じいちゃんの骨、しっかり残っているねえ」と感心した。そして、叔母に祖父との思い出を聞いてもらった。

 5歳の頃である。私は田んぼ道を走る祖父のバイクの後ろに乗っていた。荷台につかまっていた手がすべり、あっと思った次の瞬間、目の前には一面の空が広がっていた。あれ、どうして空しか見えないんだろうと思ったのと、その薄水色の空を今も覚えている。少しして自分がバイクから落ちたことに気づいた。起き上がると、だいぶ先を走る祖父のバイクが小さく見えた。私が落ちたことに気づいていないらしかった。立ち尽くし、やがて私は来た道をテケテケと祖父の家へと走り戻ったのだった。その後覚えているのは、戻ってきて私を見つけた祖父が不機嫌に見えたことだ。今は祖父の気持ちはよく分かる。あれは心配したあとで、私が無事だったことに安堵したゆえのものだったろう。
「私がいないのに気づいてビックリしただろうね」
バイクを止めて後ろを見たときの祖父の様子を想像して、クククッと私たちは笑いを押し殺した。そのあとで、本当におだやかで優しい人だったね、料理が上手だったよね、と祖父を偲んだ。その日のうちに、祖父のお骨はお墓に埋葬された。

 あれから数週間経ったけれど、今でも寝しなにふと祖父のことを思い出して泣いてしまうことがある。私の大切な人がひとり、この世からいなくなってしまった。とてもさびしい。

 でも、私の人生はつづく。私にできるのは、祖父の人生からつながる自分の人生を精一杯生きることのみである。

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