言葉

なります、なりません。

「~になります」という、いわゆるバイト言葉は日本語として正しくないと指摘されて久しい。「~に成る、為る」という表現は、主に、それまでとは違った状態や形に変わることを意味する。それなのに、「こちらコーヒーになります」と目の前にコーヒーが出されたとして、それは既に厳然たるコーヒーそのものであってコーヒー以外の何ものにもなるわけではないか! というのが指摘の主旨である。

 それでも、この表現を今でもあちこちで耳にする。使い勝手がいいのだろうと思う。

 今から15年以上も前、東京に出てきたばかりのわたしは、小さいレトロな喫茶店でモーニングのバイトをしていた。そのとき誰に教わったわけでもないが、正しくはないと分かっていつつも、「こちらAセットになります」とか、「こちらコーヒーになります」というバイト言葉が口をついて出ていた。ひとつに、単に「コーヒーです」というより言葉のすわりがよい、という理由があった。そしてまた、20代と若かったので「コーヒーでございます」というのも仰々しい感じがして抵抗があった。24歳の若さにして「サザエでございま~す」と、ございますを使いこなしているサザエさんはさすがである。

 仰々しくなく、かつ丁寧に聞こえる気がするというただただ感覚的な理由で、わたしはそのバイト言葉を使っていたような気がする。いわば、いや、本当は向こうの横断歩道を渡らないといけないってのは分かってるんですよ、でも車も来ないし、こちらが近道なので渡っちゃいますね的なノリである。それは、正しいか正しくないか、という観点から言えば、正しくない、ということになるのだけれども。

 「こちらコーヒーになります」と言ったウェイトレスに、「へえ、これコーヒーじゃないの、これからコーヒーになるんだ?」といちゃもんをつけたおじさんを見かけたことがある。学生バイトであろう若いウェイトレスをオロオロさせているその様子はちょっとしたイジメのようで、面倒くさいおやじだなと思った。彼女だって”丁寧な感じ”を演出しようとしただけだ、とウェイトレス経験のあるわたしは彼女に肩入れした。 “正しさ”を振りかざしていちゃもんを付けるなんて、あのおやじはきっと仕事がうまくいっていないとか、家族からシカトされているとかいう理由でストレスを抱えているに違いない。まあ、人を相手にする仕事をしていれば往々にしてイヤな目には遭うものだ。頑張れ、ウェイトレスのおねえさん! 心でエールを送りながら、ふと、モーニングバイト時代の出来事が思い出されて笑いが込み上げた。

 その朝、モーニングの客の波が引いたころ、背広姿のサラリーマンのおじさんがやってきた。注文はアイスコーヒーだった。それまでの忙しさからくる緊張の糸が切れ、ふいに疲れが襲った。そのせいで脳みそがショートしてしまったのだと思う。アイスコーヒーをテーブルに置きながら、言ってしまったのだ。

「こちら、照り焼きバーガーになります」

 ええーっと、そのおじさんが目を丸くして仰天したマスオさんみたいな声を出したのが、忘れられない。

ミゼラブル、ミゼラブル

ポーターハウス久しぶりに再会した友人とワインを飲みながら軽く食事をし、サヨナラして店を出ると雨がひどく降っていた。そして、身をすくめるほどに寒かった。ミゼラブル。

天気がめまぐるしく変わり、しょっちゅう雨が降るアイルランドではミゼラブル(miserable)という言葉をよく耳にする。みじめなとか哀れなという意味だが、どしゃぶりやひどい天気を指しても使われるのだ。

まったくもって気がめいるようなミゼラブルな天気だと思いつつも、まだ6時前だったからそのまま帰るのは少しもったいない気がして、グラフトンストリート近くのThe Porterhouseに寄ることにした。ギネスはおいておらず、クラフトビールのカルチャーを牽引している人気のパブだ。ダブリンでも街中に数店舗あって、そのどれもが賑わいをみせている。

店内に入ると、空いているのは入り口近くのカウンターの角にあたる一席だけだった。声高にガールズトークを繰り広げている若い女子2人組と、若者3人組に挟まれたその席はあまり居心地が良さそうに見えなかったが、とりあえず The Porterhouse体験をしてみようと椅子に腰掛けた。

「ヘイ」Hey.

バーマンが無表情で声をかけてきた。無愛想な坊主頭の若者である。

「何にする?」What would you like?

「Harpってあったりする?」Do you have Harp?

「ないね」Nah.

だよね。とっさに聞いてしまったけれど、そんなの置いてるかよというバーマンのバカにしたような顔を見て、ちっ、しくじったぜ。ちょっとダサい感じをだしちゃったなと思う。それって、ちょっと気取ったカクテルバーに行って、ホッピーありますかと聞いてしまうような場違い感だ。ただ、置いているところをめっきり見かけなくなり、私の中でレア感が増しているHarp というラガービールを飲みたくて、でも叶わずにいたのだ。このビールは人気がないみたいだ。Harpを好きだというアイリッシュに会ったこともない。

仕方ない。ならば銘柄に詳しいわけじゃないし、とりあえず人気のクラフトビールを試してみるか。

「何が人気なの?」 What is a popular one?  

「赤、白どっち?」 Red or White?

レッドエールとかはあまり好まない。私はホワイトビールが好きである。

「白で」White.

バーマンが早口で銘柄をあげた。彼のアクセントが強いせいか聞き取れなかった。
どうせ私の知っているビールなんかなさそうだ。

「じゃあ、それにするよ」 I’ll take that.

「どれ?」Which one?

バーマンはイラツいたような表情を見せる。彼が挙げた銘柄は1つじゃなかったようだ。あの早口で銘柄を複数あげたのか。不親切だなあ。伝えようという意図が感じられない。おもてなしの心というものがないのかっ。……ないだろうな。まあいい、テキトーなのを選んでおこう。

「一番最初のやつで」 The first one.

「フランスとニュージーランドのがあるけど?」French or Newzealand?

どういうことだ? 思いがけない質問に私はえっ?という感じで言葉をつまらせた。バーマンは、呆れたようにハアッとため息をつき天井を見上げて、その場からいなくなった。

無愛想にもほどがある。しかも無視かよとイラッとし、イヤなバーマンに当たってしまったなあとテンションが下がる。別なバーマンが来るのを待とうと右手の壁にかかっている黒板を眺めていると、さっきのバーマンが戻って来た。なんだよ、お前かよとテンションがまた一段下がる。彼は白ワインの入ったグラスを手にしていた。ほらよ、という感じで彼はそれを無造作に差し出した。

そういうことかと瞬間的に理解した。この店といえばビールだと思っていたからWhat is a popular one? と私は聞いた。ビールを指したつもりのoneを彼はwine(ワイン)と聞き間違えたのだ。赤か白かという質問も、フレンチかニュージーランドかという質問もそれで納得がいく。

ここに来る前にもワインを飲んでいたし、まあいいかというちょっと面倒くさい気持ちと、自分の言い方がまずかったのかもしれないという気弱さが招く疑いから、訂正する気にもならず、私は何も言わずに6ユーロを支払った。

確かにポピュラーなワインなのであろう。美味いワインだった。でも気分はのらなかった。まったく興ざめだ。なんだって私はわざわざクラフトビールの店を訪れてワインを飲んでいるんだ。これが白ワインだというのは分かる。しかしフランスワインなのか、ニュージーランドワインなのか不明じゃないか。なんだかみじめな気持ちにさえなってくる。ミゼラブル。

気づくと、例のバーマンは隣の若者たちと愛想よく会話を交わしていた。私にはふてぶてしくしか見えないが笑顔まで浮かべている。へえ、笑えるんだと不思議な気持ちで彼を見ていたら、去年イタリアで遭遇したシエナ駅の窓口のじいさんを思い出した。駅の外から発車するバスについて尋ねたら、「ここは電車の切符を売る窓口だ。バスのことなんて他で聞け!」と怒鳴られた。あのじいさんも愛想がないうえにアグレッシブで不親切だったが、他の旅行者たちにも同じようにシャウトしていた。頭に来たが、人を選ばず誰にでも不親切でイヤな奴であるという点ではフェアだったと思う。ところがこの若者はどうだ。芯というものがないのか。人によって態度を変えるんじゃないよ。イヤな奴ならイヤな奴を貫け、バカヤロー!

楽しくない気分で酒を飲むのは虚しいし、性に合わない。それが無駄でしかないことは重々承知だが、ちょっとした無言の抵抗のつもりでグラスに少しばかりワインを残して私は店を出た。

雨は降り続いている。しかも寒い。ミゼラブル。

くぅ、何て日だ。めいりそうになる気持ちを奮い立たせ、寒さに身を縮めながら私は帰路へついた。

まあ、旅をしているとこんな目に遭うこともある。

そのフラストレーションをどうやって解消するか。

こうやってネタにするのである。ニヤリ。

晴れのち雨、そして雹が降る

ダブリンは予想以上に寒かった。人々は冬の格好をしている。分かっていたつもりだったのにしくじってしまった私は、チワワのように震えている。

こちらに来る前、偶然会ったアイリッシュにアイルランドに行くことを伝えると、2人が2人とも「知ってると思うけど、天気については謝っておくよ」と言った。アイルランドの天気は目まぐるしく変わる。晴れていたと思ったら雨が降る。降ったかと思えばまた青空が顔をのぞかせ、その10分後には風ととともに雨が降る。今朝などは晴れていたはずなのに、出かけようとしたら雹が降った。私が忘れていただけなのか、今回はいつも以上にアイルランドの天気に振り回されている。どんな気まぐれもアイルランドの天気にはかなわない。そりゃあ、飲まなきゃやっていられない。この国の人が酒を飲むのは、この天気のせいに違いないと私は勝手に思っている。一方で、こんな気まぐれな天気には、気にしないのがいちばんの対処法なんだろうと街を歩く人々を見ていて思う。雨が降ってこようが、雹が降ってこようが、道を歩く人は表情を変えずに颯爽と足早に通り過ぎていく。

ローナンがお茶をしようと言うので、ダウンタウンであるシティセンターに行くことにした。お気に入りのカフェがあるらしい。ローナンの車椅子を押しながら路面電車ルアスの駅へと向かう。

初めてアイルランドを訪れたのは大学3年だった20年前のことだ。5週間の予定で語学留学にやってきたときのホストファミリーは、今や私の家族ともいうべき人たちだ。後に1年間の留学で滞在中にもしばしば彼らを訪ね、グチをきいてもらいディナーをごちそうになったものだ。今回も私は彼らの家に滞在させてもらっている。初めて出会ったときローナンはまだ5歳で、そこらじゅうを走り回っていた。よくチョコレートを口の周りにつけたままキスをしてくるので、頬がチョコレートでベタベタになって苦笑いしたことなんかが懐かしい。10歳の頃だったか病気が発覚し、今彼は車椅子生活を送っている。不自由にはなってしまったけれど、あの頃の面影はそのままだ。

imageルアスを終点のセント・スティーブンス・グリーンで降りて、小雨に打たれながらローナンのお気に入りのカフェ Lemonと向かう。昔はクラシックなバーで、そこのベイリースコーヒーが美味しかったような記憶があるが定かではない。ダブリンの街中では、ここのところオシャレなカフェをそこここに見かけるようになった。

カリフォルニアオムレツと、ローナンオススメのカフェモカを味わいながら、いろいろな話をした。彼は日本が大好きで、6年前に東京で過ごした1ヶ月の間に訪れた場所や起こった出来事を鮮明に覚えていて私を驚かせる。

日本語を独学で学んでいるローナンが私に1冊の本を見せてくれた。Dirty Japanese という日本語のスラング集だ。そう言えば、少し前にもUissu Ohisa! (ウィッス、オヒサ!=どうも、ひさしぶり!ということらしい)とメッセージを送ってきたので何事かと思ったことがある。日本語のスラングを習ってるんだと言っていたが、この本の影響か。池袋のジュンク堂の日本語のセクションでお土産を探していたときに見かけたが手には取らなかった本だ。かぶらなくてよかった、と開いてみて驚いた。

Helloのセクションに「んちゃっ!」、Goodbyeのところに「バイナラ」が紹介されている時点で不穏な空気が漂っていたが、こんなにトンチンカンな語学テキストはいまだかつて見たことがない。自分を意味するMyselfのところには「あたい」が載っているが、80年代に人気だった大映ドラマの不良少女じゃあるまいし、今時自分をあたいと呼ぶなんて落語に出てくる亀助とか金坊くらいのもんである。

ドラッグに関する会話や下ネタも満載のこのテキストには、ありきたりな表現でなく、型を打ち破りたいという意図があるんだろうと自己紹介編の例文を見て思う。

俺はケネスっていうんだ。My name’s Kenneth.
カナダから来てる。I’m from Canada.

まあ、ここまではいいとしよう。次に衝撃の事実が明かされる。

命は後3ヶ月しかないんだ。I only have three month to live.
まだチェリーだし。And I’m still a virgin.

初対面なのに重い。限りなくリアクションに困る告白である。まだチェリーだしって、命が後3ヶ月しかないことと童貞であることに関連性はないと思われるが、焦る気持ちは伝わってくる。それゆえなのか自己紹介で空気を読まずにそんなことをぶち込んでくるあたりがチェリーである所以ではないのかとも思うが、それを指摘するのは酷であろう。なにせケネスには余命が3ヶ月しかないんである。とりえあえず同情をみせ、愛想笑いをして、健闘を祈るしかあるまい。頑張れ、チェリー。

この本は参考にしないほうがいいよと苦笑しながら言うと、そうなの?という感じでローナンは拍子抜けしたようだった。

気づくとまた雹混じりの雨が降り出していた。金平糖みたいな雹がアスファルトに弾かれてそこここに散らばっているかのようだ。寒くて気が滅入るなあと思いながら、自分の気持ちを奮い立たせようと、レッツポジティブ!と心の中でつぶやいたところで、もはやこれも古いかもしれないと思った。

スラングや流行語は刹那的な魅力を放って人を惹きつけるけれども、だからこそあっという間に消費されて色あせていく。世代が違うだけで通じない表現もあることを考えると、そのスピードに追いついていくのはハードルが高い。TPOを間違えるとトラブルだって招きかねないし。

かくいう私もそうとは知らずに不適切な発言をし、あとで赤面したなんて経験はたくさんしている。そうして思うのは、奇をてらったりしないほうが、案外ものごとはうまくいったり、スムーズに伝わったりするということだ。だから、スタンダードや基本をきっちり押さえることが大切だと思う。それがしっかりしていれば、意図的に外したりすることもできるわけで。

ローナンがカフェモカをすすり、「オイシイデス」と言った。彼が「わ、これ、マジうめぇー」とか言わなくてよかったとホッとしながら「おいしいね」とうなずく。そして、自分にもまだまだ学ぶことがたくさんあることを思う。

ダブリンを訪れることは、私にとって原点回帰の意味を持つ。

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