思い出

予期せぬ答え

 今回のラグビー日本代表はすごかった。ルールをよく知らないながら、私も興奮しながらテレビの前で応援していた。あの大きな体と体が激しくぶつかりあう様子を見ながら、改めて命の危険と隣合わせの厳しいスポーツなのだと思った。そしてその危険も顧みず果敢に相手に向かっていく姿に選手たちの情熱を感じた。日本中が熱狂し、日本代表は今、大きな注目を集めている。先日テレビを見ていたら、五郎丸選手とリーチマイケル選手がインタビューを受けていた。締めというところになって、女性アナウンサーが緊張気味に、「最後に、聞かせてください」と、満を持した様子で質問した。「ラグビーは好きですか?」

 テレビの前でのけぞりそうになった。なんてことを聞くんだ。日本代表としてあんなに闘志に燃えて闘っていた選手に、それ聞くってどういうことなんだ。 女性アナウンサーとしては、ひねったつもりで、何回転かしてのその質問だったのか。予想通りの答えが返ってくることを想定しての質問だったのか。でも、私はひとり、テレビの前で予期せぬ答えが返ってきたらどうしよう、どう受けとめたらいいのだとドキドキしてしまった。そしてなぜか、もう十何年も前のある出来事を思い出した。

 私が育った町から少し離れた大きな街の片隅に、小さな喫茶店があった。小さなおばあさんが切り盛りしていて、店で出しているケーキもおばあさんの手作りで、大変評判がよかった。その店のことを何度か聞いたことがあって、いつか行ってみたいと思っていたもののなかなかチャンスがなかった。あるとき、近くで用事があり、念願かなってその店を訪れることができた。噂を聞いてから、数年は経っていたと思う。

 店に入ると、白髪をおだんごにして割烹着を着た小さなおばあさんが奥から出てきた。他に客はなかった。パステルカラーの和紙でできたメニューも、店の雰囲気にあっていた。「いちごみるく」なんて、イチゴのイラストつきでひらがなで書かれているのもよい。テーブルと椅子もアンティーク調で、大正ロマンを感じさせるようなレトロな雰囲気のこの店を、私はすぐ気に入った。おばあさんにオススメを聞くと洋梨のタルトというので、それとコーヒーを頼み、まったりして過ごしていた。

 しばらくすると、ひとりの女性が入ってきた。30代半ばくらいだろうか。彼女は店内をじっくり見回してから、気に入ったらしいテーブルについた。メニューを運んできたおばあさんに、「私、ここにずっときてみたかったんです」と感激した様子で話していた。ああ、この人もか、と思った。

 214066おばあさんがケーキと飲み物を運んでくると、その女性は感激さめやらぬ様子で笑顔を浮かべ、おばあさんに訊ねた。

「このお店、おひとりで切り盛りされているんですよね」

 そう、小さなおばあさんの手作りケーキがウリの小さな喫茶店。そのメルヘンチックなところに惹かれて、彼女も私もやってきたのだ。

「そうなんですよ。全部、私ひとりでね。仕入れから何から、誰もいないから、全部あたしで」
 うんうん、と笑顔で女性はうなずく。おばあさんは続けて言った。

「もうねえ、あたしゃ身も心もボロボロなんですよ」
 おばあさんの顔は泣き出しそうにゆがんでいた。

 思わぬ言葉に一瞬固まったあと、女性を見ると、その顔から笑みは消えて、やはり言葉を失っていた。そして少しの間のあと「た、大変ですね…」とつぶやくように言った。

 それまで穏やかでレトロでいい感じと思っていた店内の雰囲気が一変した。なんだかひんやりして、古めかしい感じすらしてきた。女性は無言でケーキを食べ終えるとそそくさと出て行ってしまった。おばあさんはそんな女性の様子に何も感じているふうがなかった。私はなんだか気の毒になって、ケーキをいくつかお土産にと買って帰った。

 家に帰って家族にケーキを出すと、かぼちゃのタルトを一口食べた弟が「うっ、苦い。なにこれ」と言い、プリンを食べた父が、「なんだこりゃ。すだっちゃってるよ」と言い、ふたりともそこで手を止めた。味に繊細でない彼らが食べ残すというのはめったにないことだ。私も味見してみたが、タルトはひたすら苦く、プリンには泡のようにすがたち、不味かった。ああ、あのおばあさんは、本当に身も心もボロボロなんだなと思った。もうちょっと早くあの店を訪れることができていたらなあ、とさみしいような残念な気持ちになった。

 今はもう、その店はない。

 リーチマイケル選手が、女子アナウンサーの質問にしばしの戸惑いを見せながらも、「大好きです」と力強く答えるのを聞いて、テレビの前で私はほっとした。

かわいこちゃんアピール大作戦

 地下鉄の乗り換えで、構内の長い上りエスカレーターに乗っていたら、下りのエスカレーターに乗っていた30前後とみられるカップルとすれ違い様に、彼女のほうが「寒いニャン」と言っているのが聞こえて、けっという気分になった。寒いニャーならまだ分かる。どうして“ニャン”なんだろう。別にワンとかブーでもいいじゃないかと思うが、それじゃだめなのか。どうして子猫の態なのだ。猫ひろしでいいじゃないか。だめなんだろうなあ、かわいくみせるには。男はというとデレっとしている。バカだなあ、でも楽しそうではある。ちぇっ。

 227131私はぶりっこというものが昔から苦手だ。名前そのものは、ふりかけか漬け物みたいだけど、こそばゆくていけない。 “ぶっている”というアンナチュラルな感じに抵抗を覚えるのである。 

 物を落としたりとか、不測の事態が発生したりしたとき、自分だと「おっと」とか、チッと舌打ちをしてしまうような場面で、「ふにゃん」だか「はにゃん」だか、もはや文字では表現しきれないような、はにまるくんのような音を発する女子をたまに見かける。私がふだん使い慣れてない声帯なんだか筋肉なんだかを使っているようで、うまく再現できないけど。

 私よりだいぶ年上でも、自分を「◯子はね〜」と名前で呼ぶ人がいる。ずっとそれで通しているのかというと、場面によって呼び名を変えているから、意識的にやっているのだろう。恐らく、それが「かわいい」と思っているのだ。

 観察していると、妙な音を発する女子にせよ、自分を名前で呼ぶ女子にせよ、人の目を意識しているというのがよく分かる。かわいく見せるための演出なのだ。もちろん嫌味をまったく感じさせない天然のぶりっこもいるが、天然である時点でぶりっこではないということになるので、このケースには当てはまらない。また不自然さを感じさせないプロ級のぶりっこというのも存在するが、それは扱いが別なので、ここでは言及しない。

 ぶりっこは年齢を問わず存在する。雑誌かなにかで中年のぶりっこのことを“ぶりっこおばさん”と称していたから、中には“ぶりっこばあさん”というのもいるのかもしれない。いずれにせよ、ヘタなぶりっこだと人の目を意識してリアクションをとるという点において、自己顕示欲だとか、かまってアピールがだだもれしているのを感じるので、苦手意識を抱いてしまうのだと思う。 

 私だけが特別というわけではないようで、周囲の声に耳を傾けていると往々にしてぶりっこの評判は芳しくない。しかし、みんな自分の人生があり、そこまでぶりっこをかまっている暇もないのでスルーする、というのが私の周囲で見られる対応のしかたである。そのせいか、自己演出をしくじっているとは思うのだけれど、ぶりっこはいつまでもぶりっこのままである。そう、永遠のぶりっこなのだ!って書くと、なんだか神々しさすら出ちゃうけど。

 私は生まれてこのかた、ぶりっこと呼ばれたことはない。一部の男性には有効らしいので、ちょっとぐらいぶったほうがいいのじゃないかという指摘は何度も受けたことがある。ああでも、思い出してみればはるか昔、まだ昭和だった頃に、かわいこちゃんアピール大作戦を実行したことがあった。

 我が家は父が休日も忙しく、運動会も含めて学校の行事に参加することがあまりなかったのだが、小学校2年生のとき、授業参観に父がやってくることになった。

 このとき、私は思ったのだ。周りにかわいい娘だと思われれば、父はそんな私を自慢に思うのじゃないか。よし、めったにない機会だ、父に花を持たせてあげよう。

 illust1617そこで張り切った私が思いついたのが、おしりを振る作戦であった。おしりをぴょこぴょこ振ってみせたら、きっとおとなは私をかわいいと思うに違いない、と考えたのである。もうその時点で自己演出をかなりしくじっているが、そう考えたのには理由があった。幼稚園のときに、正式なタイトルは覚えていないが、ひよこのうた、というのを習った。♪ぴよ ぴよ ぴよ まあかわいいという一節だけは記憶にある。この ♪ぴよ ぴよ ぴよ まあかわいい、の部分を振り付けつきで披露したところ、親戚中で「かわいい」と大変評判がよかった。その振り付けにおしりを振るというのがあったのだ。まだヒトケタの人生経験しかない私は、おしりを振る=かわいい、と思い込んでしまったというわけだった。

 授業参観は音楽の時間だった。クラスメートの母親たちにまじって父が見守る中で授業は進み、先生のオルガン演奏に合わせてカスタネットをたたくという場面になった。皆さん、覚えているだろうか。あの、青と赤の丸い板をゴムひもでつないだ懐かしの小さなカスタネットを。今でもあのときのことを思い出すと、青と赤のコントラストが頭の片隅に浮かんでくる。

 126238私はカスタネットを打ち鳴らすたびに、おしりをぴょこぴょこと振った。どうだ、かわいいだろうと言わんばかりに。やがて教室の後ろが少しばかりざわつき、「あの子、おしりを振ってるわよ」とささやく声が私の耳にも届いた。

 その日、家に帰ると、ふすまの向こうで父が母に授業参観の報告をしていた。
「なんだか知らないけど、あいつ、ケツを振ってるんだよ……」
「ええっ、おしりを……!?」

表情はもちろん分からなかった。しかし、いぶかしがる父と戸惑っている母の様子は伝わってきた。その空気感が、リフレインした教室のざわめきとあいまって、私はかわいこちゃんアピール大作戦が失敗し、玉砕したことを幼心に悟ったのであった。

 赤面を禁じ得ない苦い思い出である。あのせいで、自分をかわいく見せるということに苦手意識が芽生えたような気もする。もしかしたら、失敗にくじかれて自分には貫けなかった何かをやってのけているように見えて、私はぶりっこをうらやましいのかもしれない。

 でも一方で思う。あのとき、ちゃんと気づいてよかった。さもないと、今でもここぞとばかりにおしりを振る女になっていたかもしれない。♪ぴよ ぴよ ぴよ まあかわいい。アラフォーにもなって尻を振る女。それはもうホラーである。

結婚発表とフクザツな気持ち

 247434福山雅治の突然の結婚発表には驚いた。ましてやファンなら言わずもがな。株価にまで影響を与えちゃうんだからすごい。ショックのあまり会社を休むとか、家事を放棄するとかいう人たちがいるらしいが、気持ちは分かる。

 中高生のとき、私は中日ドラゴンズの立浪選手の熱狂的ファンであった。しかし田舎では情報も限られる。野球中継は巨人戦のみだし、当時はインターネットなんてものはないから、雑誌、新聞のスポーツ欄、テレビのプロ野球ニュースをくまなくチェックして立浪情報を集めていた。不純な動機とはいえ、好きとか、興味というのは膨大な知識を蓄えるきっかけになるようだ。私は当時のプロ野球事情にはめちゃくちゃ詳しかった。12球団の選手全員とその背番号を把握していた。 

 我が家のテレビのチャンネルの権限を持っているのは父だったから、幼い頃は野球中継なんて見たいテレビ番組を疎外する邪魔なものでしかなかったが、立浪選手のファンになってからは、父とプロ野球の話をするようになった。

 ひとり娘だからお父さんはかわいくてしかたないんだろうねえ、と周りに言われて育った。こっちからすれば、いつ爆発するかわからない父の機嫌を損ねないようにそこそこ気を遣っているつもりだったが、母は「お父さんはあんたに甘いんだから」とよく言っていた。兄弟からも今でも言われるくらいだから、父は私には甘かったのだろうと思う。私が毎日毎日、立浪立浪とうるさいので、東京に中日戦を見に連れて行ってくれたことがある。中学時代にソフトボール部だった私が、田舎町のスポーツ用品店では扱いのない立浪選手と同じメーカーのグローブがどうしても欲しいと訴えたときも、車で1時間ほどかかる大きな街まで連れていってくれた。3店まわって、私はやっと目当てのメーカーのグローブを手に入れた。

 高校生になっても立浪熱は相変わらずだったが、ある日、ひどく疲れて、プロ野球ニュースチェックをせずに寝てしまったことがあった。そんなときに限って事件は起こる。

 「ちょっとお姉ちゃん、立浪さんが結婚するって!」

 慌てた母の言葉で目が覚めた。布団から飛び出て居間へかけこむと、テレビから立浪選手が結婚を発表したというニュースが流れていた。これは嘘だ。夢に違いない。夢であってくれと願った。次第に状況が飲み込めてくるとショックで涙がこみ上げてきて、ブラウン管に映る画面がぼやけてきた。やがて私は号泣した。

 うぉ〜んと泣きながら、裏切られたような思いで、部屋の壁に張っていた立浪選手のポスターを破り捨て、雑誌とともにゴミ箱に放り込んだ。

 あとで知ったのだが、父と弟は前夜のニュースで立浪選手の結婚発表を知っていたらしい。あいつが知ったら大変なことになるぞと、父は弟に箝口令をしいた。その場にいなかった母はそれを知らず、朝のニュースを見て驚き、私に報せたというわけだった。

 朝食の間も私は号泣し続けた。ご飯に目玉焼きをのせてしょうゆをかけると、半熟の黄身がつぶれてご飯を黄色く染めた。涙でぼやけてはいるが、そのしょうゆがかった黄色が今も目に焼きついている。

 うわ〜ん。私は泣きながら黄色いご飯を食べた。(それでも食べるんかい!というツッコミはごもっともである。……食べるんです。)

 129198父はしばらく何も言わずに朝食をとっていたが、いつまでも泣きやまない私に業を煮やしたようだった。

「そんなことぐらいで、いつまでも泣いているんじゃない!」

 私にとっては16年の人生で一番悲しいぐらいの出来事である。それをそんなことだと!?

「う〜、お、お父さんに、ア、アタシの気持ちなんか、う〜、わ、わからないんだから!」私は嗚咽しながら反論した。うえ〜ん。

「んなもんわかるか! 食うか泣くかどっちかにしろっつうんだ、このバカッ!」

 うぉ〜ん。私は黄色いご飯をかきこみながら泣いた。父親というのは、なんと繊細さに欠ける生き物なのだと、理解のない父親を持ったこの我が身の不幸をのろった。

 私はクラスメートをもドン引きさせるほどのショックの受けようで、体育の時間も、まるで陰気な座敷わらしのように体育館の隅で体育ずわりをしたまま動かず、悲しみの底に沈んで一日喪に服した。
 
 あの朝の我が家のように、福山ショックで学校、会社、家庭、道ばたのあちこちでいろんなドラマが繰り広げられているのだろうなと思ったら、涙でぼやけたテレビの画面とご飯の黄色い残像とともにあの日のことがよみがえってきて、なんとも言えない気持ちになった。それは悲しみではない。あの時の悲しみなど、みじんも残らず消化されている。 

 親の心子知らず、とはよく言ったものだ。子どもの私には父のことを考える余裕なんてなかったが、今、あの時の父の憂いを察するにあまりある。高校生にもなって、あわまんじゅうが食べられなかったといって泣き、好きな野球選手が結婚したといって、卵ごはんをほおばりながら号泣する娘を前にして、父はどんな気持ちでいただろうか。あの日の朝を思い出すと、おかしいやら、情けないやら、申し訳ないやら、ありがたいやら、いろんな思いがフクザツにからみあって、なんとも言えない気持ちになる。