思い出

喉元すぎた熱さを思い出す

 ある日、外国人の名でFacebookの友達申請が送られてきた。知らない人から送られてくることもたまにあるからスルーしようかと思った矢先、その名前に思いあたった。もう20年近くも連絡が途絶えていたアイルランドの友人イーファだった。懐かしさとともに、ある思い出が蘇った。

 1年の予定でアイルランドのダブリンにやってきた当初、部屋探しに苦労した。あの頃から誰かと一緒に暮らすのは無理そうだと思っていて、少なくとも個室を確保したいとこだわっていたこともあるのだが、いい感じのところはどこも先に借り手がついていた。時折肩を落としながらもあちらこちら動きまわって、ようやく小さな部屋を借りることができた。あんな大変な思いは二度としたくないが、不思議と当時の私には不安がなかった。若者特有の経験の浅さゆえの楽観的なマインドが良く働いたのだろう。

 その部屋は細長い建物の5階にあって、もとは1つだったのを3部屋に区切ったようなつくりで狭かったが、トイレとシャワーとキッチン、ベッドや食器などは備え付けられていた。このベッドがとにかく臭かった。鼻にツーンとくるような異臭は消臭スプレーを丸々1本使い、新品のカバーをかけてようやく気にならなくなった。床も斜めに傾いていて、条件は決して良くなかったけれども、とりあえず住居を確保したことに私は安堵した。引っ越しがひと段落して、留学生仲間のフランス人が貸してくれたラジカセをつけると、当時の流行りのポップスが流れてきた。何かをやり遂げたような、でもこれからが始まりのような、ワクワクする濃い時間だった。夜の10時半を回っていた。よし、今日はこれくらいにして明日に備えよう。当然のことながら風呂には入れないが、さっぱりして寝たくて私はシャワーを浴びた。

 251790シャワーを浴びている最中、あることが心配になった。この部屋は壁がうすい。もしかして夜にシャワーなんて浴びたら騒音で隣に迷惑がかかりやしないか。こんな海外で不要な揉め事はごめんだ。そう思った私は、パジャマを着て髪をふくと、シャワーを出しっぱなしにして、その音が外にど響くかどうか確かめようと部屋の外へ出た。そろそろとドアを少しずつ閉めて音の響き具合を確認する。(少し響くかも知れないな。でもドアが開いているしな。閉めたら響かないかも)そんなことを思ってドアノブを引いた瞬間、カチャッと音がしたのと、あっ!と思ったのが同時だった。海外にはホテルと同じで閉めると鍵がかかるタイプのドアが多い。この部屋の鍵もそのタイプだった。そうして私は閉め出されてしまった。いや、自分で閉め出してしまったのだけれど。

 押したり引いたりしてみたが、粗末な部屋とはいえ、ドアは鍵がかかってびくともしない。もう夜も遅い。近くに頼れる知人は誰もいない。日本からはるばるダブリンまでやってきて10日あまり、パジャマに裸足、髪は濡れたままの私は自分を部屋から閉め出して途方に暮れた。

 廊下の壁に窓があった。そこから壁をつたって部屋に入れないかと考えたが、そこは5階でベランダも足場になるような凹凸もない。こういう状況だと想像が飛躍するみたいだ。窓から足を踏み外し落下する自分を想像し、ここで死ぬのか……と絶望した。

 しばし呆然としたのち、我に返って少し落ちついた私は、助けを求めて建物内の各部屋の呼び鈴を押して回った。どの部屋も中に人がいる気配はあるのに応答がない。それも当然だよな、怪しすぎる……とあきらめかけたとき、2階に住む女性が応答してくれた。インターホンで事情を説明するとその人はドアを開け、ほの暗い灯りがともる部屋に私を招き入れてくれた。私よりいくぶんか年上に見えるその女性は本を読んで起きていたようだった。それがイーファとの出会いである。

 この時点で、私はまだ自力でどうにかせねばと思っているので、とりあえず彼女からピンを借りた。ほんのわずかな希望をもって部屋に戻り、鍵穴に差し込んでカチャカチャやってみたが時間を無駄にしただけだった。ドラマや漫画のようにはいかないものだ。スゴスゴと彼女の部屋に戻る羽目になった。警察に頼るしかないんじゃないかと言ってイーファが電話をしてくれたが、警官が到着するまでだいぶ時間がかかった。待つ間、イーファが煎れたお茶を飲みながら私たちは自己紹介をし、それがきっかけで友だちになった。

 ようやくやってきた警官が事情を聴いて取り出したのはクレジットカードだった。悲しいかな、ピンと大して発想が変わらないではないか。不安は的中し、ドアの隙間にカードを差し込んでカチャカチャやったあと、警官が言った。

「これは無理だな。残念だけど、ドアを蹴破るしかない」

 それはイヤだよう…と内心思いつつ、状況が状況なので何も言えない。それを察してか、裸足にパジャマ姿で濡れたままの髪を垂らして泣きそうになっている見知らぬジャパニーズガールの顔を見て、「もう1回だけ試してみよう」と警官は慰めるように言った。多分無理だけど、とその表情は語っていた。でもやってみるものだ。警官が最後と言わんばかりにカードを差し込んで勢いよく上に引き上げると、今まではもったいぶっていたかのようにカチャッと音がして鍵が外れた。警官がドアを開けると、まるで後光のような部屋の光が廊下に差し込んだ。出しっ放しのシャワーがザーザーと音を立てていた。こうして私は救われた。

 異国で窮地に陥り、パジャマに裸足、髪は濡れたままで途方に暮れた自分のことを私は忘れていた。あのとき私は、窓から足を踏み外して落ちて死ぬ自分の姿を想像し、ほんの一時、絶望したのだった。そのことを思い出して感じたのは、人生ってなんとかなるもんなんだなあということだった。喉元すぎれば熱さ忘れるとはよくいったものだ。ちなみに、このことわざには、苦しい経験も過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れるという意味に加えて、苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまう、という意味もある。あの時の喉元の熱さを思い出して、私は自分のアホさ加減に加えて、受けた恩義も思い出した。そして、ドアを開けてくれた警官と、あのとき私を部屋に入れてくれたイーファに改めて感謝した。

 あと1週間で私はダブリンへと旅立つ。旧友との再会がとても楽しみだ。

サンタクロースがやってきた!

 099981サンタクロースの存在を知ったのは、4歳のときである。その日、同じ町内の祖父母の家に泊まっていた。まだ暗かったような気がするから冬の早朝だったのだろうか。目が覚めて祖母のもとへ行くと、「サンタさんがきたよ」と言う。キョトンとしているとキティちゃんのぬいぐるみを渡された。私と世代が近い人はご存知だろう、横向きのキティちゃんである。それでサンタクロースを知った。見ず知らずの子どもにプレゼントをくれるなんて奇特なおじさんだなあ、というような印象を幼心に抱いた気がする。今思えば、両親も粋な演出をしたものだ。私はすっかりサンタクロースの存在を信じた。 

 我が家へやってくるサンタクロースの正体を知ったのは小学3年生のときである。リクエストしていたのは、家族で遠出をしたときに寄ったデパートの書店で見かけた本だった。けれども町内の本屋にはそんなラインナップがあるはずもない。当然、今のようにAmazonなどないし、クリスマスの朝、枕元に置いてあったのは全然違う本だった。でも、サンタさんにもいろいろ都合や事情があるのだろう、とさほど気には留めなかった。そういう子どもだったのである。それよりも、サンタに書いた手紙の返事があったことに興奮した。胸の高まりを抑えつつ手紙をひらいた瞬間、私の夢は打ち砕かれたのだけれど。そこには筆ペンで書かれた達筆な字が並んでいた。しかも縦書き。「ああ、お父さんか……」と思った。

 その翌年だったと思う。サンタに何をお願いするつもりなのかと5歳上の兄が聞いてきた。兄は小遣いをためるということに長けていて、私からすればちょっとした小金持ちだった。そして私はその時点で、兄がサンタクロースになるつもりだなと感づいた。私はチョコやキャンディの詰め合わせをリクエストした。といってもただのスーパーで売っているようなお菓子ではない。女の子向けの雑貨などを扱うファンシーショップで1個10円ぐらいでバラ売りされている、包み紙もポップなオシャレなチョコやキャンディである。翌日、私の枕元には私が望んだとおりのキャンディやチョコがぎっしりつまった小箱が置かれていた。中学生の兄があんな女の子のお店に入るのは恥ずかしかったんじゃないだろうかと思い、何よりもその気持ちがうれしかったのを覚えている。サンタクロースがくれたことになっているから兄には何も言わなかったが、喜んでいる私を見て、兄は満足そうな顔をしていた。 

 兄のサンタクロースはひとつ下の弟のところにもやってきた。弟はまだサンタクロースを信じていた。手紙の一件のあとも、私は弟に何も言わなかったんだろうと思う。我ながら出来た姉である。

 さて、弟がサンタクロースにお願いしたのはドリルロボであった。乗り物がロボットに変身するというこの玩具シリーズを弟はコレクションしていた。当時で1つ600円くらいだったと思う。繰り返しになるが、Amazonのない時代である。町内の小さなおもちゃ屋にはドリルロボの在庫がなかったらしい。サンタクロースから弟へ届いたのは、ドリルロボではない違うロボ2体だった。

santa-back弟はこれに満足しなかった。母が朝食の用意をしているのを待っている間、食卓で父に不満をぶつけた。

「ねえ、どうしてドリルロボじゃないの? ボクはサンタクロースにドリルロボを頼んだんだよ」
 
父は少し困ったような顔をして、
「どうしてかな、サンタさんにも都合があるんじゃないか。でも、違うロボが来たんだからいいじゃないか」となだめた。
 
兄を見ると、気まずそうな顔をしていて、ちょっと気の毒になった。
 
それで落ち着けばよかったが、弟は納得しなかった。

「サンタクロースなのに間違うの? ボクはドリルロボって言ったんだ。なのに違うじゃないか。なんでドリルロボじゃないんだよぅ」

父は気が短いのである。不穏な空気を感じ、私は心の中で、「ドリルロボ、ドリルロボ言うんじゃないよ、このバカ」と毒づいた。

「ねえ、なんで。ドリルロボが欲しかったのに。なんで違うの?」
 
弟は訴え続ける。どうも納得いかないのである。

「ねえ、ドリルロボ……」

「ドリルロボ、ドリルロボうるせえな! これはなあ、お兄ちゃんがサンタクロースになってお前のために買ってくれたヤツなんだぞ! それを文句ばっかり言いやがって、何なんだお前は! このバカッ!」

父がブチ切れた。
兄は思惑が外れてがっかりしていた。
私は、あちゃあ、と思った。
そして、弟はギャン泣きした。父に怒られたショックと、サンタクロースの正体を知ってしまったショックとのダブルパンチである。いや、ドリルロボが手に入らなかったから、トリプルパンチか。
 その年のクリスマスの朝は、ちょっとしたカオスであった。
 それを境にサンタクロースはぴたりと我が家に来なくなった。

 あれから30年たった今年のクリスマス。
 弟から結婚式の招待状が届いた。

トイレにまつわるエトセトラ

 013657先日、朝のワイドショーを見ていたら、トイレが話題にあがっていた。小学校では耐震化工事を優先するなど予算の関係もあり、まだ昔ながらの和式便器が主流なのだそうだ。でも今や一般家庭では洋式が主流であり、使い方が分からなくて戸惑う子も少なくないらしい。トイレで“大”をするのを躊躇してしまう率が洋式に比べて高いらしく、子どもの便秘にも影響を及ぼしているのだそうだ。コメンテーターたちも、“今時、和式ですか!?”みたいな反応で、まるで和式便器が悪者みたいで不憫になった。

 私は公共のトイレは断然、和式派である。どこの誰がどれだけ座ったか分からない便座に座るのには抵抗があるので、便器と距離を保てる和式のほうがクリーンな気がする。昔、ダブリンに一年留学したことがあるのだが、海外の公共トイレの便器は便座の位置が日本のものよりも高い。しかも清潔感はあまりなかった。海外に住むとなると、この便器とずっと付き合わなければならないのかと考えると、ややブルーな心持ちになったのを覚えている。近頃は便座シートや除菌ジェルなどが備え付けられているところも増えてきてはいるけれど、外のトイレで和式と洋式の選択ができるなら、私は今でも迷わず和式を選ぶ。駅やデパートのトイレで並んでいると、和式と洋式の両方がある場合、「お先にどうぞ」と和式を譲られることもよくあって、ラッキーと思う。人気でいえば、洋式が和式を圧倒しているようだ。和式に肩入れしている私としては無念である。

 私は十八歳まで和式便器で育った。いや、別にその中で暮らしていたわけじゃないけど。そして、何の告白なんだよ。さらに言えば、何を隠そう我が家のトイレはいわゆる“ボットン便所”であった。タレントの有吉弘行が「家のトイレがボットンなのが恥ずかしくて学生時代に彼女を作らなかった」と告白していたのを何かの番組で見たことがあるが、その気持ちはよく分かる。当時もすでに一般家庭では水洗の洋式が主流だったと思うから、それはちょっと恥ずかしい事実であったりもした。そのうえボットン便所は、入るたびに幾ばくかの緊張感がまとわりつく。何度スリッパを落としてしまったことか。中学生の頃にはお年玉でもらった一万円を入れたお気に入りの財布をうっかり落としてしまったことがある。結構な深さがあるので、財布は見えるが手を伸ばして届くような距離ではない。どうする、あきらめるしかないのか……。ショックで落ち込む私を救ったのは、私よりもボットン便所歴が長い兄であった。趣味の釣り道具を持ち出して、私の財布をつり上げてくれたのだった。トイレに集合して様子を見守っていた家族から「おおっ!」と歓声があがり、その正月一番の盛り上がりを見せた。お気に入りの財布はおじゃんになったが、一万円は無事に戻ってきた。 

 引っ越しをして、ボットン便所からいきなり洋式の水洗トイレになった。あのスリル感は失われ、トイレタイムはまったりと心地よいものになった。劣勢の和式に加勢したい気持ちはやまやまだが、私だって完全プライベート空間である家のトイレにおいては洋式がいい。ロダンの「考える人」みたいなポーズもできちゃうし。物心ついたときから洋式だったという人より、和式のボットン便所から洋式トイレへの移行を経験している人のほうが洋式の恩恵を享受しているに違いないと思う。

 我が家に私が“ブルーレット事件”と呼ぶ出来事が起こったのもその頃である。
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大学生のとき、帰省したら家のトイレの水が青くなっていた。おお、あれを使っているのか、と思った。母によれば、それには理由があった。

 ある日、母がトイレに入ると床に色の着いた粉が散らばっていた。よく見ると、それはバスクリンであった。なぜ、トイレにバスクリンが……? いぶかしがる母は、その日知人の家を訪れてトイレを借りた父が、トイレの水が青いことに衝撃を受けたことを知った。バスクリンは父の仕業であった。単純思考で、色のついた水といえばバスクリンしか思い浮かばなかったようだ。試しにトイレのタンクにバスクリンを入れてみたらしかった。結果は言わずもがなである。

 色のついた水がフラッシュとともに透明に戻ったときにショックを受けただろう父の様子を想像したら笑えた。
「バスクリンて緑色じゃん、そもそも青くないっつうの。信号じゃないんだから」と言いながら、腹を抱えて大爆笑した。
「だからお母さん、ブルーレットを買って来て、そっと入れておいてあげたのよ」と、笑いながら母は言った。笑い転げながらその言葉を聞いて、我が母ながらその懐の深さに感服した。笑いが収まって冷静になり、父のDNAを色濃く受け継いでいることを思い出した私には、自分の将来に対する一抹の不安だけが残った。兄弟の中で誰よりも私が父親に似ているのである……。だから、父の行動パターンはよく分かる。手塚治虫の「ブラック・ジャック」の文庫版を書店で見つけて第1巻を置いておいたら、私のもくろみどおり、次の帰省時にはトイレに全巻揃っていた。その正月、私を含め兄弟たちのトイレ滞在時間は長くなった。

 トイレについて考え、トイレにまつわる出来事を思い出した朝であった。確かに、和式トイレがなくなったとしても特に問題はなさそうな気もする。でも、でもだよ、和式と洋式、どっちが良いとか悪いとかじゃない、いろんなトイレがあっていいじゃないか。スリル感あるトイレ修行をして育ち、和式トイレを難なくこなせる私としては、公共のトイレでくらい和式を残してほしいなあと思う。あれがなくなっちゃうとさびしいというちょっとしたノスタルジーもあるのかもしれない。ひょっとして和式がなくなったら、ちょっと尖ってみたいうんこ座りするヤンキーも消滅して、地べたに座るゆる〜い系若者だけになってしまうのかもしれないというビミョーな危惧もある。

 「初めてのときは使い方が分からない子どもたちも、絵のついた説明書きや足跡シールをつけたりすることで、和式便器をこなせるようになっているそうです」とアナウンサーが言うのを聞いて、私は心の中で「がんばれ、ちびっこ!」とエールを送った。