マイ ライフ

プライオリティ

先日、親戚であつまる機会があり、食事が終わったあとでお茶を飲んだりしながらまったりしていたときのことである。

「どうしてトイレに行かないの!」と従妹が小学校1年生になる息子を叱っていた。見ると彼のズボンの股のあたりが濡れているのが見て取れた。叱られている本人はどうかというと、表情ひとつ変えずにしれっとしている。そして従妹の小言が終わるや否や、さっさと彼自身の従兄弟たちの輪の中に戻り、きゃっきゃっとはしゃぎながら走り回って遊びに興じているのだった。

085184「もうやんなっちゃう。すぐお漏らしするんだから」

 従妹は相変わらずぷりぷりしている。聞けば、息子は遊んでいる最中にトイレに行きたくなっても行かず、しょっちゅうお漏らしをするのだそうだ。小学2年生までおねしょをしていた私としては、少し従妹の子の肩を持ちたい気分になって、「大人になってもお漏らししながら遊んでいる人なんていないんだから、大丈夫だよ」と従妹をなぐさめた。そうして、楽しそうに他の子どもたちと遊んでいる従妹の子を眺めていて思い当たった。彼にとっては、尿意を催してトイレに行くということよりも、目の前の遊びのほうがプライオリティが高いのである。だから、遊びを中断しなければならないくらいなら、漏らしてしまえということになるようだ。パンツとズボンが濡れたままで気持ち悪くないだろうかと思う一方で、ある意味、突き抜けているなあと感心してしまった。そうしてあることを思い出した。

 秋葉原に行った時のことである。興味半分でアニメグッズを取り扱っている店に入ってみた。ショーケースにセクシーな女性フィギュアが所狭しと並んでいて、万単位の高価な値段設定に驚いた。自分には縁のないところだなと店を出ようと出口を探したところで、30代半ばは超えているように見られる男性が目に入った。リュックを背負ってネルシャツインなところが、私が勝手に抱いていた秋葉原のイメージと妙にマッチしていた。彼は店の大きな紙袋を両手に下げていた。どちらの袋からも例のセクシーフィギュアの箱が頭をのぞかせていた。いくつ入っているんだろうか。少なく見積もっても数万円はかかっているだろうと、その購買力に驚いた。

 眺めていると、男性が顔を輝かせた。店内では小型テレビで流れているアイドルグループのDVDが流れていたのだが、それが目に留まったようだった。彼はおもむろに紙袋をおくと、DVDに合わせて踊りだした。おいおい、通路で踊り出しちゃったよと呆れる一方で、振り付けを完璧にマスターしていることに感心してしまった。なりふり構わずその無心で踊る楽しげな様子がうらやましいぐらいだと思った。瞬間、にかっと笑って口を開けた彼には前歯がなかった。それが彼を間抜けに見せ、口を閉じているときよりも老けているように見せた。

 私は彼の高価なフィギュアを大人買いする購買力に驚いたばかりである。きっと、歯がないのはお金がないからではないはずだ。彼にとっては歯を入れるよりもセクシーフィギュアを手に入れるほうがプライオリティが高いのに違いない。

 自分だけの常識で考えたら、尿意を催したらトイレに行くだろうとか、フィギュアを買うより前歯を入れるだろうと思ってしまうが、彼らはそうではないのだ。プライオリティというのは、まったくもってひとそれぞれなんだなあと思った次第である。

 何より彼らが夢中で楽しんでいる様子は印象的であった。そんな風に自分が夢中になれるものがあるだろうかと考えてみる。「三度の飯よりも好き」というやつである。

 結果、四十路を超えてなお三度の飯が何よりプライオリティが高いことに思い至り、愕然とした私であった。

薄水色の空

その日の夜、私は上野の焼き肉屋で友人と飲んでいた。焼酎も3杯目のおかわりをした頃、ふと脇においたバックに目をやるとケータイが光っていて着信に気づいた。母からだった。急いで出ると、祖父が亡くなったことを告げられた。詳しいことはまた後で連絡するからと言って電話は切れた。

  lgi01a201406080700祖父は少し前に退院してしばらくは元気で意識もはっきりしていたのに、再び入院になって2日後には娘である母のことも分からなくなり、食べることもできなくなった。祖父に忘れられてしまっていたら耐えられるだろうかと不安ではあったが、翌週には帰省して会いに行くつもりでいた。 朝に母から祖父の容態が安定していると聞いて安心していたところだった。

 友人に祖父が亡くなったことを伝え、もっと早く会いに行っていればよかった、とつぶやくと、「何をしたって後悔は残るんだよ」と父親を亡くしている友人は言った。

 なんだかひとりになりたくなくて、もう一杯、もう一杯と友人を付き合わせ、店をあとにした頃には空が白み始めていた。タクシーをつかまえて帰宅し、部屋でひとりになると泣けてきた。ベッドに突っ伏して、声をあげて泣いた。

 祖父が元気だった頃は、家に遊びに行くと「これ、持っていけ」と自分が作った野菜をたくさん持たせてくれたり、ご飯を作ってくれて「ほら、食え」と出してくれたりした。働き者で寡黙な人だった。

 長生きしてよと言うたび、お前が嫁に行くまでは死ねない、と祖父が言い返すのが長年の私たちお決まりのやり取りだったのに、祖父は逝ってしまった。少し前に見舞ったとき、「まだ私は嫁に行ってないんだから、元気になってよ」と言うと、祖父は「がっかりしちゃう」とまるで泣くようなふりをして右手で顔を覆った。励ますつもりだったのに予想外の反応に胸が痛んだ。私は祖父の望むようには生きられない。そのことを申し訳なく思った。でも、ひょっとして祖父は分かってくれていたのだろうか。時間が経って、あれは祖父なりのおちゃらけだったのかも、などという気がしないでもないが、いくら考えてみても、その場にいた母に聞いてみても、未だに分からない。

 祖父の亡きがらと対面して、その穏やかな顔に安堵した。納棺のときも、お葬式のときも、火葬する直前も、最後の言葉をかけてくださいと言われるたびに思いをめぐらして言葉を探してみたけれど、「ありがとう」しかなかった。

 火葬の間、私たちはお茶を飲んだり、おにぎりを食べたりしながら終わるのを待った。祖父の曾孫にあたる従妹の幼い子どもたちが走り回っているのを眺めていると、祖父からその子たちにつながる系譜が凄いものに思えた。

 火葬が済んで拾骨室に入り、お骨になった祖父を見たら、まるでカチリッと音がしたように私の中で区切りがついた。隣にいた叔母と「じいちゃんの骨、しっかり残っているねえ」と感心した。そして、叔母に祖父との思い出を聞いてもらった。

 5歳の頃である。私は田んぼ道を走る祖父のバイクの後ろに乗っていた。荷台につかまっていた手がすべり、あっと思った次の瞬間、目の前には一面の空が広がっていた。あれ、どうして空しか見えないんだろうと思ったのと、その薄水色の空を今も覚えている。少しして自分がバイクから落ちたことに気づいた。起き上がると、だいぶ先を走る祖父のバイクが小さく見えた。私が落ちたことに気づいていないらしかった。立ち尽くし、やがて私は来た道をテケテケと祖父の家へと走り戻ったのだった。その後覚えているのは、戻ってきて私を見つけた祖父が不機嫌に見えたことだ。今は祖父の気持ちはよく分かる。あれは心配したあとで、私が無事だったことに安堵したゆえのものだったろう。
「私がいないのに気づいてビックリしただろうね」
バイクを止めて後ろを見たときの祖父の様子を想像して、クククッと私たちは笑いを押し殺した。そのあとで、本当におだやかで優しい人だったね、料理が上手だったよね、と祖父を偲んだ。その日のうちに、祖父のお骨はお墓に埋葬された。

 あれから数週間経ったけれど、今でも寝しなにふと祖父のことを思い出して泣いてしまうことがある。私の大切な人がひとり、この世からいなくなってしまった。とてもさびしい。

 でも、私の人生はつづく。私にできるのは、祖父の人生からつながる自分の人生を精一杯生きることのみである。

とりどりみどり〜アイルランド旅行記エピローグ〜

久しぶりに会った友人と飲んでいたら、「なんだか、緑色ですね」と言う。なんのことかと思ったら、その日の服装の色使いのことらしかった。確かに私は緑色のスカートを穿いていて、トップスのボーダーにも濃いグリーンが入っていた。
「あらっ、ネイルまでグリーンが入ってる!」
グラスを持つ私の手を見て、彼女は少々驚いたように言った。
「癒しを求めてるのよ、たぶん」
私は笑って答えた。

それを言われたのは初めてではない。
「緑色、好きなんだね」
と少し前にも同僚に指摘されたばかりだ。一口に緑色と言っても、淡い色もあれば濃い色もあったり、ターコイズブルーに近いような色もあって様々だけれども、確かに私はここのところ、ミドリちゃんかというくらい緑づいている。

あと数日で、家族ともいうべき人たちに会うためにアイルランドへ発つのだと話したら、
「アイルランドといえば緑の国ですものね」
と彼女は言った。

imageアイルランドへ出発する前日、昼食に池袋にある全国のインスタントラーメンを揃えている店で買った「エイリアンラーメン」を食べることにした。買うつもりはなかったのに、昭和のホラー漫画みたいなパッケージと、“スープがまるで泥汁のような”という紹介文が気になって買ってしまったのだった。冷蔵庫に残っていた卵と一緒に麺をゆで、スープの粉を入れたら濃い緑色になった。抹茶のような鮮やかさはなく、どろっとした藻のような緑色である。ひゃー、ラーメンまで緑だよ、どんだけ〜となかば引き気味に汁をすすってみると、これが美味であった。ワラスボとかいう耳慣れぬ生物からとったという、まったりとした深い甘みのある魚介だしが効いている。パッケージに描かれているナマズの化け物のようなのがワラスボらしい。カニといい、あんこうといい、こういうグロテスクな魚介類はいい味を出すものだ。エライ。ちょっとの間ラーメンとはオサラバだなと思いながらエイリアンラーメンの緑の汁を飲み干した。

さて、出発の日がやってきた。朝5時半に起きてケータイをチェックすると、Facebookからタグづけされたと通知が届いていた。ローナンが「僕のジャパニーズシスターがやって来る!」と書き込んでいた。2日前にはローナンの母親であるヘレンが空港まで迎えに行くからねと電話をくれた。待ってくれている人がいるというのはうれしいものだ。

着替えて鏡を覗いたら、そこには緑色は見当たらなかった。ガウチョパンツのグレーの色が、曇ったアイルランドの空の色みたいだと思った。

玄関に向かい、パッキングを済ませて玄関に置いておいたスーツケースを見て笑いがこぼれた。よく見たら、弟から借りたスーツケースはビリジアンのような濃い緑色をしていた。やっぱり緑づいているな、私。たぶん、求めているからだろう。そんなわけで私はアイルランドヘ行く。

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