ひと

花桃の季節に

庭の一角で花桃が咲いていた。まだ若い桃色の花をつけた枝と紅色の花をつけた枝が交差して、そこだけが色鮮やかに華やいでいた。

  私が子どもの頃、祖父母の家の庭はもっと雑多で小さな森のようだった。巴旦杏やグミの木があって、実がなると兄弟やいとこと競い合うように食べていた記憶がある。それらの木はもうない。庭は背の低い植木がすっきりと整えられ、洒落た庭石の向こう側には、いつの間にか幅を拡張してコンクリート舗装された道をはさんで、何にも遮られることのない田んぼの風景が一面に広がる。新緑の季節には碧の一面が広がり、秋の収穫の時期には黄金色の稲穂がいっせいに頭を垂れる。私が物心ついたときからその風景は変わらない。それをとりまくものは物であれ人であれ変わったように思う。恐らく私もそのひとりだ。

 ゴールデンウィークに帰省した際、祖父の仏壇に線香をあげたくて、祖母の家を訪れた。祖父が亡くなってから一年が過ぎようとしている。

 体調を崩していた祖母の夢に、祖父が出てきたらしい。心配で出て来たんかねえ、などと誰ともなく言う。祖父は夢の中でただ黙々と畑仕事をしていたそうだ。

 日の出とともに起きて畑や田んぼに出て、日が沈むと寝るような生活を送る祖父は働き者だった。子どもの自分でも何もせずゴロゴロ過ごしたいと思うことがあるのに、なぜそんなに黙々と体を動かして働き続けられるのか不思議だった。祖父はあの世に行ってまで休むことを知らないのだろうか。それとも闘病から解放されたことがうれしくて体を動かしているのだろうか。

 この一年、祖父が私の夢に出てきたことはない。妻である祖母も健在だし、子どもは5人いるし、孫は2ケタを超える。曾孫に至っても、先頃私の弟にも赤ん坊が生まれたし、その数は増えるばかりだ。あの世のシステムはよく分からないが、丈夫で風邪もひかない私の優先順位は高くはないだろう。なんだか残念だ。優先順位が上がるような心配の種がないかと考えてみれば、思いつくのは私の「行き遅れ問題」しかない。

「嫁に行かないのか、いつになったら嫁に行くんだ」と言うのが、大正生まれの祖父のお決まりの挨拶だった。家族のために働きづめの人生だったのに、祖父は結婚して家庭を持つことが幸せだと信じていたのだと思う。私が嫁に行くまでは死ねないと言っていたのに、しびれを切らしたのか、約束を反故にしてあの世に行ってしまった。

 庭の花桃を眺めているうちに、あの世に行ってもそれが気がかりなら、祖父は「まだ嫁に行かないのか、いつになったら嫁に行くんだ」と言って私の夢に出てくるかもしれない、と期待が湧いた。

 ただ、こちらとしては逢えればうれしいが、あの世でまで心配させ続けるのは忍びない。だから、言ってやろうと思っている。

「じいちゃん、今は結婚しなくても幸せになれる時代だって、あのゼクシィですらコマーシャルで言ってるよ」

 祖父がゼクシィを知っているかは甚だ疑問だけれども。

誤解

以前から約束していた公演を見るために2ヶ月ぶりに友人と待ち合わせ場所で会ったとき、何だか気恥ずかしい気がした。向こうも同じみたいだった。というのも、この友人と出会ってから結構な頻度で飲み歩いていて、2ヶ月も会わなかったのは初めてのことだったからだ。

196485 会って話してみれば、お互いが相手からの連絡を待っていて、連絡がないのは相手に嫌われてしまったからかもしれないと思い込んでいたのだった。まるで私たちは、いい歳をした、恋する乙女みたいだった。

 誤解が解ければ何てことはない。私たちは2ヶ月ぶりに、はしごした2件目の飲み屋が閉店になるまで酒を酌み交わしたのだった。 

 それから2日後の休日、7年ぶりに大学時代の友人に会った。学部は違ったが人と群れるのが苦手な私と彼女はウマが合った。私の実家にも遊びに来たことがある。

 前回彼女と会ったとき、私は肉体的にも精神的にも最悪の状態で、朝に食べたアボカドで突然のアレルギー反応に襲われた。顔がパンパンに腫れ、全身が蕁麻疹に覆われ、声が変わっていった。アナフィラキシーショックだった。彼女が病院に運び込んでくれなかったら、危ないところだった。彼女は命の恩人とも言うべき友人である。また遊びに行くねと言いながら会えないまま、必死でどん底から這い上がろうともがいているうちに4年ほどが過ぎた。

 そんなある日、彼女から突然手紙が届いた。それには突然の病で大きな手術をした報告と、久しぶりに会いたいです、と書かれていた。私も急いで返信をした。けれども、お互い会いたいと言いながらも具体的な日時を決めることもなく、日常に謀殺されたまま、日々は過ぎていった。向こうも小さい子どもが二人もいるから、私以上に慌ただしい日々を送っていたに違いないと思う。

 2度ほど彼女にメールを出したが、返事はなかった。忙しいのかもしれない、病気のこともあるし、もしかしたら人には会いたくない時期なのかもしれない。自分にもそんな経験はあったから、気にはしなかった。

 その頃、私はLINEをやるようになり、ポコパンというゲームにハマっていた。 自分の電話番号を相手が登録しているとか、友だちになっている人の中にポコパンをやっている人がいると、ランキングにアカウント名が表示される。ある日、そのランキングの中に、私はその友人のものを発見した。彼女の名前はのぶ江とか、かず美みたいに、ひらがなと漢字が組合わされていて、よくある名前ではないのですぐ分かった。

 そこで、彼女に「久しぶり。元気?」とメッセージを送った。結果、既読スルーされた。ちょっと傷つきながら、やっぱり、まだ会いたい気分じゃないのかもしれない、と思うことにした。

004640  しかし、友人は毎日毎日、ポコパンで高得点をたたき出している。そのうえ、彼女のLINEのアイコンは時折変わる。決まって動物のお尻のアップ写真にひと言コメントがついている。馬のお尻には「馬ケツ」、犬のお尻には「犬ケツ」という具合である。それを見ながら、「バケツ」はすぐに分かったが、犬ケツが「イヌケツ」ではなく、「ケンケツ」と読ませて献血とひっかけているに違いないと思い当たったときには、ひざを打つ勢いだった。そんなお気楽感を漂わせているのに既読スルー。ゲームはガッツリやっとるやないかいっ、という腹立ちを、きっと病気が彼女をそうさせているのだという思いで抑えているうちに日々は過ぎた。

 彼女から年賀状は届いた。「元気? 私も元気だよ。会いたいね」とひと言添えてあった。私も「元気だよ、会いたいね」と遅ればせながら返信をした。しかしLINEは既読スルー。このまま疎遠になって会うこともなくなってしまうのかもしれない。私はがっかりゆえの腹立たしささえ感じていた。

 やがてポコパンにもすっかり飽きて、彼女のLINEアイコンを目にすることもなくなっていた。

 そんな折、電車の中でスマホを見ていたら、友人と同じ病気のタレントのことがニュースになっていた。彼女のことが思い出されて、果たして元気でいるのかと急に心配になった。無事なのだろうか。落ち着かず、メールもLINEもだめならと、今度はショートメールでメッセージを送った。

 意外にも、友人から会おうという返信がすぐに来た。具体的な日付の提案もあった。そんなわけで、私たちは7年ぶりに再会したのだった。

 友人と私の間は、驚くほどに何も変わっていなかった。話も尽きなかった。命に関わるほどの病気が発覚して手術をしてからこれまでの話を聞かせてくれたあとで、まるでドラマみたいだったよと彼女は力強く笑った。私は何もできなかったけれど、彼女を支える家族がいること、そして何より友人が回復して元気でいることにほっとした。

 しばらくして、会えてよかったよ、しばらく会いたくないのかなと思っていたから、と私がこぼすと、友人はキョトンとしている。聞けば、メールなんて届いていないと言う。しかも、LINEはやっているが、ポコパンはやっていないと言う。人違いだった。なんという衝撃。じゃあ、あれは誰だったのか。

 考えてみれば、馬ケツも犬ケツも、友人らしくない。LINEアドレスを交換してみれば、友人のアイコンは子どもの写真であった。もちろん、お尻のアップではない。

「私が病んでおかしくなったとでも思った?」と友人は爆笑していたが、正直なところその通りだ。違和感があったのに、それを無視して友人に違いないと思い込んでいたのだった。しかし、本当にあれは誰だったのだろう? 

 彼女が子どものお迎えに行かなければならない時間まで、私たちはおしゃべりをして笑い合った。

 相手を気遣っているつもりが、どこかで、「ちぇっ、どうせ私のことなんて」とすねてしまっていたのかも知れない。勝手な思い込みで数少ない友人を2人もなくさないでよかった。

 もしあなたにも、気になっている人がいるのなら、連絡してみてはいかがだろうか。

薄水色の空

その日の夜、私は上野の焼き肉屋で友人と飲んでいた。焼酎も3杯目のおかわりをした頃、ふと脇においたバックに目をやるとケータイが光っていて着信に気づいた。母からだった。急いで出ると、祖父が亡くなったことを告げられた。詳しいことはまた後で連絡するからと言って電話は切れた。

  lgi01a201406080700祖父は少し前に退院してしばらくは元気で意識もはっきりしていたのに、再び入院になって2日後には娘である母のことも分からなくなり、食べることもできなくなった。祖父に忘れられてしまっていたら耐えられるだろうかと不安ではあったが、翌週には帰省して会いに行くつもりでいた。 朝に母から祖父の容態が安定していると聞いて安心していたところだった。

 友人に祖父が亡くなったことを伝え、もっと早く会いに行っていればよかった、とつぶやくと、「何をしたって後悔は残るんだよ」と父親を亡くしている友人は言った。

 なんだかひとりになりたくなくて、もう一杯、もう一杯と友人を付き合わせ、店をあとにした頃には空が白み始めていた。タクシーをつかまえて帰宅し、部屋でひとりになると泣けてきた。ベッドに突っ伏して、声をあげて泣いた。

 祖父が元気だった頃は、家に遊びに行くと「これ、持っていけ」と自分が作った野菜をたくさん持たせてくれたり、ご飯を作ってくれて「ほら、食え」と出してくれたりした。働き者で寡黙な人だった。

 長生きしてよと言うたび、お前が嫁に行くまでは死ねない、と祖父が言い返すのが長年の私たちお決まりのやり取りだったのに、祖父は逝ってしまった。少し前に見舞ったとき、「まだ私は嫁に行ってないんだから、元気になってよ」と言うと、祖父は「がっかりしちゃう」とまるで泣くようなふりをして右手で顔を覆った。励ますつもりだったのに予想外の反応に胸が痛んだ。私は祖父の望むようには生きられない。そのことを申し訳なく思った。でも、ひょっとして祖父は分かってくれていたのだろうか。時間が経って、あれは祖父なりのおちゃらけだったのかも、などという気がしないでもないが、いくら考えてみても、その場にいた母に聞いてみても、未だに分からない。

 祖父の亡きがらと対面して、その穏やかな顔に安堵した。納棺のときも、お葬式のときも、火葬する直前も、最後の言葉をかけてくださいと言われるたびに思いをめぐらして言葉を探してみたけれど、「ありがとう」しかなかった。

 火葬の間、私たちはお茶を飲んだり、おにぎりを食べたりしながら終わるのを待った。祖父の曾孫にあたる従妹の幼い子どもたちが走り回っているのを眺めていると、祖父からその子たちにつながる系譜が凄いものに思えた。

 火葬が済んで拾骨室に入り、お骨になった祖父を見たら、まるでカチリッと音がしたように私の中で区切りがついた。隣にいた叔母と「じいちゃんの骨、しっかり残っているねえ」と感心した。そして、叔母に祖父との思い出を聞いてもらった。

 5歳の頃である。私は田んぼ道を走る祖父のバイクの後ろに乗っていた。荷台につかまっていた手がすべり、あっと思った次の瞬間、目の前には一面の空が広がっていた。あれ、どうして空しか見えないんだろうと思ったのと、その薄水色の空を今も覚えている。少しして自分がバイクから落ちたことに気づいた。起き上がると、だいぶ先を走る祖父のバイクが小さく見えた。私が落ちたことに気づいていないらしかった。立ち尽くし、やがて私は来た道をテケテケと祖父の家へと走り戻ったのだった。その後覚えているのは、戻ってきて私を見つけた祖父が不機嫌に見えたことだ。今は祖父の気持ちはよく分かる。あれは心配したあとで、私が無事だったことに安堵したゆえのものだったろう。
「私がいないのに気づいてビックリしただろうね」
バイクを止めて後ろを見たときの祖父の様子を想像して、クククッと私たちは笑いを押し殺した。そのあとで、本当におだやかで優しい人だったね、料理が上手だったよね、と祖父を偲んだ。その日のうちに、祖父のお骨はお墓に埋葬された。

 あれから数週間経ったけれど、今でも寝しなにふと祖父のことを思い出して泣いてしまうことがある。私の大切な人がひとり、この世からいなくなってしまった。とてもさびしい。

 でも、私の人生はつづく。私にできるのは、祖父の人生からつながる自分の人生を精一杯生きることのみである。

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