おいしいもの

あれも鍋これも鍋

クリスマスの休日、夜に友人と韓国料理屋で会う予定しか入っていなかった私は、永遠に終わらない断捨離の矛先をキッチン周りに向けた。シンク下から、蓋のない土鍋が出てきた。巣鴨の地蔵通りの縁日に、人の良さそうなおじさんの、「この鍋で調理すると遠赤外線効果でおいしくできるよ」という言葉にのせられて買った鍋だった。確かに使い勝手がよくて、カレーやら煮物やら作るのに重宝していたのだけれど、ある時、手を滑らせて蓋を割ってしまった。気に入っていた鍋だけに悔やまれたが、クレジットカードのポイントでゲットした蓋つきのテフロン加工の鍋が届いてからは、土鍋の出番はほとんどなくなった。それがあったことも忘れていた。

 目の前の土鍋を改めて見てみれば、大きさも手頃で形も私好みである。しかし、蓋がないことで不完全に思われ、つくづく蓋を割ってしまったことが悔やまれた。蓋があってこその鍋は、相方を失ってどこか寂しげにさえ見える。

 破れ鍋に綴じ蓋という言葉を思った。どんな鍋でもそれ相応の蓋があるというところから、どんな人にもそれ相応の伴侶がいるということのたとえである。また、その両者は似通っているという意味もある。

 いつの正月だったか、だいぶ年下の従妹が旦那さんを連れて私が帰省中に実家に遊びに来た。二人が帰ったあとで、母が感心したように言った。

「似た者同士が結婚するなんていうけど、あの子にはぴったりの相手だねえ。巡り合わせだねえ」

「そうだねえ、縁なんだろうねえ」と、私は剥いたみかんの実を口に放り込みながら相づちを打った。母は「それなのに」と言葉を続け、首を傾げた。 

「どうしてあんたは巡り会わないんだろうね? もしかしてあんたの運命の人、死んでるんじゃないの」

 運命の人死亡説が浮上し、目から鱗が落ちた瞬間である。それからしばらく経つが、未だ生存確認はできていない。この世にいないのなら仕方あるまい。以来、私は半ば未亡人のような心持ちで日々を過ごしている。

 鍋は割れちゃいないが、蓋の方が割れてなくなった我が家の土鍋。断捨離するには忍びなくて、そっとシンクの下に戻し、私は身支度をして家を出た。

 友人と韓国料理屋にて落ち合い、チャミソルで乾杯する。豊富なつきだしを味わいながら待っていると、次々と注文した料理が運ばれてきた。スンドゥブ鍋もクツクツと小気味のいい音を立てながら到着した。そこではたと気づいた。スンドゥブの鍋には蓋がない。もともと蓋がないんである。けれども、ちっとも寂しそうではなかった。それどころか、へたにさわると熱いぜ、やけどするぜと言わんばかりの佇まいに、食欲を刺激されてテンションが上がり、一句までできた。

綴じ蓋は あってもなくても いいじゃない
人間だもの。

 チャミソルが体に染みていくのを感じながら、私は友人との宴を楽しんだ。

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今年もブログを読んでいただいた皆様ありがとうございました。
どうぞ素敵な年をお迎えください 。

 

笑う女

ひとり飯を喰らう人が好きである。  

いつだったか、月島の店でひとり、お好み焼きを食べている青年を見かけたことがある。私は連れの肩越しに彼を見ていた。とても楽しそうだったから、ついつい目が離せなくなってしまったのだ。青年は丁寧にお好み焼きを焼き、ソース、マヨネーズ、青のりをかけて仕上げた。それから手を合わせていただきますをして、ヘラで器用に一片を切り出して口に運んだ。青年が満足げな笑みを浮かべながら、実においしそうに食べる様子は感動的ですらあった。私もあんな風に食べる人になりたい。あの青年の姿は私にとって、ひとり飯の理想型である。

先日の夜、近くでひとり飯をして帰ろうかと考えながら地下鉄の駅の階段を上りきったところで、膝の辺りにガツンと何かがぶつかり、「痛っ」と声が漏れた。すみませんと言いながら、大きなカバンを下げた若い女が足早に私を追い越していった。カバンの角が私の膝裏をヒットしたのだ。

少しばかりの苛立ちを抑えつつ歩いていくと、信号待ちをするさっきの女に追いついた。どんな顔をしているか見てやろうと視線を上げると、女は笑っていた。ひとり、ニヤけているのだ。微笑みという領域をはるかに超えている。通りの向こうから漏れるかすかな明かりに照らされ、彼女の笑う顔が暗闇の中に浮かび上がっていた。

怖っ。

不可解な笑顔にかきたてられた恐怖心から、私はその笑顔の訳を探ろうとして、彼女の耳にイヤホンを探した。ケータイで誰かと話していて、相手の言葉に笑ったのかもしれないと思ったのだ。しかし、当ては外れた。

なぜだ、なぜ笑っているのだ。

ふと、横断歩道の向こう側にある人影が目に入った。暗くて姿がよくは見えないが若い男のようだ。ははん、そういうことか。あの男は恋人に違いない。待ち合わせでもしているのだろう。なるほど女は、通りの向こう側を見て笑っているようにも見える。男は彼女に気づいていないようだが、彼女は彼に気づいたのだろう。なるほどと、彼女の笑顔の訳に思い当たって、気持ちが落ち着いた。

信号が青に変わった。

女は大きなカバンを肩にかけて持ち直すと、待ちきれない様子で駆け出した。恋って素晴らしい。若いってうらやましい。

彼は彼女に気づく素振りがない。まったく鈍いぜ、お兄さんよぅと思いながら、若いカップルの逢瀬を目撃しちゃおうと見ていたら、女は男を通り過ぎた。赤の他人のようだ。予想外の展開に私は焦り、目で女を追った。彼女は勢いよく、近くの牛丼店に駆け込んでいった。そう、女の笑顔の訳は牛丼だったのだ。

拍子抜けしているうちに、信号は赤に変わった。私の心持ちも変わった。女はひとり飯を喰らう人であった。

キン肉マンばりに牛丼にテンションを上げられる彼女がすごいのか、彼女をあんな笑顔にさせる牛丼がすごいのかはよく分からないが、私は胸がすく思いがして、心の中で「グッジョブ」という掛け声とともに親指を立てた。

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鯉のあらい

 fish_koi 先日、またひとつ歳をとった。
 疲れがとれない。ちょっと食べたらすぐ太る。
 歳上のおねえさんたちが口々にいっていたことを実感する今日この頃だ。

「おねえさん、上がっていきなさいよ」

 実家に帰省中、近所のおじさんたちの宴に誘われ、断りきれず上がらせてもらうことになった。

「はいよ、飲める口なんでしょ」とコップを渡され、秋田の酒をなみなみとつがれる。

 おじさんたち5、6人が囲むテーブルには、和洋中の料理が入り乱れてところせましと並ぶ。

「このシューマイ、うまいよ」と勧められたり、「こっちも食べて」と回鍋肉の盛り皿やポテトサラダが回ってきたりして忙しい。そのお宅の奥さんが、これもどうぞと、栄養ドリンクと野菜ジュースを手渡してくれる。ちょっとしたカオスである。

 そのなかで、メインは鯉のあらいであった。おじさんの中に、鯉のあらい作り名人がいるらしい。なかなか乙な一品ではある。そういえば、この間聴いた落語にぜいたくな料理として鯉のあらいが出てきた。

 実のところ、子どもの頃に父が作った鯉料理を食べて以来、鯉には泥臭い印象しかない。放っておいたら箸はつけなかっただろうが、おじさんたちが酢みそにつけて食べろ食べろとかえるの合唱みたいに勧めてくる。

 ここは空気を読む。一切れすくって、酢みそにつけて口に入れてみたら、これがうまかった。泥臭さなどみじんもない。日本酒にもよく合う。

「うわあ、おいしいですねえ。こんなにおいしいの初めて食べました」とやや大げさに賞賛しながら、ぱくりぱくりと鯉のあらいを二切れ三切れと口に運ぶと、おじさんたちは満足げであった。

 「東京で働いてます」とか「この夏は暑いですねえ」とか、しばらく世間話をしていると、わたしから一番遠くに座っていたひとりのおじさんが、どういう文脈でそうなったのか分からないが、

「あんた、子どもいないんだろ」と言い出した。

「ええ、おりません」と笑って答えて日本酒を飲む。

「子孫繁栄は人類の義務だよ、あんた。がんばらなくちゃ」と言うので

「がんばります」と笑顔で返して、鯉のあらいをもう一切れすくって食べる。

「まだ独身なんだって? 早く結婚しなくちゃ。相手いないの」

 今度は、その向かいのおじさんが口を挟む。

「ご縁がないもので」

 ほほほ、と笑ってわたしは日本酒を飲む。

「待つばかりではだめだよ、今の時代は。これだと思うオトコがいたら、自分から積極的にいかなきゃ」

 そう言った隣のおじさんは、わたしを励ましてくれているつもりのようだ。

「そうですね、積極的にいかなきゃですよね」

 わたしが左手でガッツポーズを作ってみせると、そんなわざとらしさに気づきもせず、おじさんたちはそうだそうだと口々にうなずいた。かえるの合唱である。

「ところであんた、いくつになるの?」と向かいのおじさんが尋ねる。

 いくつに見えますぅ、などという質問返しはしないことをポリシーとしている。

「今年で四十二になります」

「……」

 テレビかラジオだったら放送事故レベルの沈黙が襲う。黙るんじゃないよ、と思う。 あんなに威勢のよかったおじさんたちがシーンとおとなしくなり、バツが悪そうにしている。おかしくて笑いが漏れそうになった。

 わたしは、もう一切れ鯉のあらいをすくい、酢みそにつけてばくりと食べた。たんぱくな味があっさりしていて小気味よい。コップに残った日本酒をくいっと飲み干し、
「結構なものをいただきまして、ごちそうさまでした」と礼を言い、何ごともなかったように笑顔を崩さずおいとました。 

 歳をとるたび、腹回りと神経は太さを増すような気がして、複雑な女心である。

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