晴れのち雨、そして雹が降る

ダブリンは予想以上に寒かった。人々は冬の格好をしている。分かっていたつもりだったのにしくじってしまった私は、チワワのように震えている。

こちらに来る前、偶然会ったアイリッシュにアイルランドに行くことを伝えると、2人が2人とも「知ってると思うけど、天気については謝っておくよ」と言った。アイルランドの天気は目まぐるしく変わる。晴れていたと思ったら雨が降る。降ったかと思えばまた青空が顔をのぞかせ、その10分後には風ととともに雨が降る。今朝などは晴れていたはずなのに、出かけようとしたら雹が降った。私が忘れていただけなのか、今回はいつも以上にアイルランドの天気に振り回されている。どんな気まぐれもアイルランドの天気にはかなわない。そりゃあ、飲まなきゃやっていられない。この国の人が酒を飲むのは、この天気のせいに違いないと私は勝手に思っている。一方で、こんな気まぐれな天気には、気にしないのがいちばんの対処法なんだろうと街を歩く人々を見ていて思う。雨が降ってこようが、雹が降ってこようが、道を歩く人は表情を変えずに颯爽と足早に通り過ぎていく。

ローナンがお茶をしようと言うので、ダウンタウンであるシティセンターに行くことにした。お気に入りのカフェがあるらしい。ローナンの車椅子を押しながら路面電車ルアスの駅へと向かう。

初めてアイルランドを訪れたのは大学3年だった20年前のことだ。5週間の予定で語学留学にやってきたときのホストファミリーは、今や私の家族ともいうべき人たちだ。後に1年間の留学で滞在中にもしばしば彼らを訪ね、グチをきいてもらいディナーをごちそうになったものだ。今回も私は彼らの家に滞在させてもらっている。初めて出会ったときローナンはまだ5歳で、そこらじゅうを走り回っていた。よくチョコレートを口の周りにつけたままキスをしてくるので、頬がチョコレートでベタベタになって苦笑いしたことなんかが懐かしい。10歳の頃だったか病気が発覚し、今彼は車椅子生活を送っている。不自由にはなってしまったけれど、あの頃の面影はそのままだ。

imageルアスを終点のセント・スティーブンス・グリーンで降りて、小雨に打たれながらローナンのお気に入りのカフェ Lemonと向かう。昔はクラシックなバーで、そこのベイリースコーヒーが美味しかったような記憶があるが定かではない。ダブリンの街中では、ここのところオシャレなカフェをそこここに見かけるようになった。

カリフォルニアオムレツと、ローナンオススメのカフェモカを味わいながら、いろいろな話をした。彼は日本が大好きで、6年前に東京で過ごした1ヶ月の間に訪れた場所や起こった出来事を鮮明に覚えていて私を驚かせる。

日本語を独学で学んでいるローナンが私に1冊の本を見せてくれた。Dirty Japanese という日本語のスラング集だ。そう言えば、少し前にもUissu Ohisa! (ウィッス、オヒサ!=どうも、ひさしぶり!ということらしい)とメッセージを送ってきたので何事かと思ったことがある。日本語のスラングを習ってるんだと言っていたが、この本の影響か。池袋のジュンク堂の日本語のセクションでお土産を探していたときに見かけたが手には取らなかった本だ。かぶらなくてよかった、と開いてみて驚いた。

Helloのセクションに「んちゃっ!」、Goodbyeのところに「バイナラ」が紹介されている時点で不穏な空気が漂っていたが、こんなにトンチンカンな語学テキストはいまだかつて見たことがない。自分を意味するMyselfのところには「あたい」が載っているが、80年代に人気だった大映ドラマの不良少女じゃあるまいし、今時自分をあたいと呼ぶなんて落語に出てくる亀助とか金坊くらいのもんである。

ドラッグに関する会話や下ネタも満載のこのテキストには、ありきたりな表現でなく、型を打ち破りたいという意図があるんだろうと自己紹介編の例文を見て思う。

俺はケネスっていうんだ。My name’s Kenneth.
カナダから来てる。I’m from Canada.

まあ、ここまではいいとしよう。次に衝撃の事実が明かされる。

命は後3ヶ月しかないんだ。I only have three month to live.
まだチェリーだし。And I’m still a virgin.

初対面なのに重い。限りなくリアクションに困る告白である。まだチェリーだしって、命が後3ヶ月しかないことと童貞であることに関連性はないと思われるが、焦る気持ちは伝わってくる。それゆえなのか自己紹介で空気を読まずにそんなことをぶち込んでくるあたりがチェリーである所以ではないのかとも思うが、それを指摘するのは酷であろう。なにせケネスには余命が3ヶ月しかないんである。とりえあえず同情をみせ、愛想笑いをして、健闘を祈るしかあるまい。頑張れ、チェリー。

この本は参考にしないほうがいいよと苦笑しながら言うと、そうなの?という感じでローナンは拍子抜けしたようだった。

気づくとまた雹混じりの雨が降り出していた。金平糖みたいな雹がアスファルトに弾かれてそこここに散らばっているかのようだ。寒くて気が滅入るなあと思いながら、自分の気持ちを奮い立たせようと、レッツポジティブ!と心の中でつぶやいたところで、もはやこれも古いかもしれないと思った。

スラングや流行語は刹那的な魅力を放って人を惹きつけるけれども、だからこそあっという間に消費されて色あせていく。世代が違うだけで通じない表現もあることを考えると、そのスピードに追いついていくのはハードルが高い。TPOを間違えるとトラブルだって招きかねないし。

かくいう私もそうとは知らずに不適切な発言をし、あとで赤面したなんて経験はたくさんしている。そうして思うのは、奇をてらったりしないほうが、案外ものごとはうまくいったり、スムーズに伝わったりするということだ。だから、スタンダードや基本をきっちり押さえることが大切だと思う。それがしっかりしていれば、意図的に外したりすることもできるわけで。

ローナンがカフェモカをすすり、「オイシイデス」と言った。彼が「わ、これ、マジうめぇー」とか言わなくてよかったとホッとしながら「おいしいね」とうなずく。そして、自分にもまだまだ学ぶことがたくさんあることを思う。

ダブリンを訪れることは、私にとって原点回帰の意味を持つ。

空港で

imageダブリンまでの乗り換えには1時間。手荷物のチェックを終えてゲートについた頃には、搭乗時間まであと20分ほどになっていた。そこで私は小さなリベンジを図ることにした。前回ダブリンを訪れた2年前、日頃の疲れが出たのか体調が戻らないまま滞在を終えた。帰りにフランクフルトで乗り換えだったのに、待ち時間の間ドイツビールを飲む気にもなれなかった。そのことをちょっぴり悔やんでいたのだ。

imageグラスの生ビールを買って席を探すと、アジア人の女性がバックパックをどけて席を空けてくれた。礼を言ってテーブルにつく。その雰囲気からこちらに住んでいる日本人かしらと思ったが、ビールを飲んでいると彼女の大きな笑い声がした。ケータイで映像を見て笑い声をあげているのだった。その様子から、たぶん日本人ではないだろうなと思った。

ビールを飲み干した頃、搭乗を待つ列の終わりが見えてきたので並ぼうと席を立つと、列の最後尾近くの椅子に移動していたさっきのアジア人女性が私を見て微笑んだ。私も微笑み返す。見知らぬ人の何気ない好意に、無意識にしていたらしい緊張がやわらぐのを感じる。

image反対側の椅子には二十歳になるかならないかぐらいの若い女の子が座っていた。手にしているパスポートにハープが描かれていて、アイリッシュだと分かった。その右手にはめられているクラダリングを見て、彼女がシングルだということも分かった。クラダリングの名はアイルランドのゴールウェイ近くの漁村に由来する。王冠(忠誠)とハート(愛)、それを抱く手(友情)のモチーフからなる。王冠を外側に向けてはめると恋人がいることを意味する。彼女の指の王冠は内側を向いていた。

前の人から距離を置いて列の最後尾に並ぶ私と、その通路を挟んで向かい合うように座っている彼女たちはトライアングルをなしていた。果たして私は人の目にはどんな風に映るのだろう。ふとそんなことを思いながらダブリン行きの飛行機に乗り込んだ。

とりどりみどり〜アイルランド旅行記エピローグ〜

久しぶりに会った友人と飲んでいたら、「なんだか、緑色ですね」と言う。なんのことかと思ったら、その日の服装の色使いのことらしかった。確かに私は緑色のスカートを穿いていて、トップスのボーダーにも濃いグリーンが入っていた。
「あらっ、ネイルまでグリーンが入ってる!」
グラスを持つ私の手を見て、彼女は少々驚いたように言った。
「癒しを求めてるのよ、たぶん」
私は笑って答えた。

それを言われたのは初めてではない。
「緑色、好きなんだね」
と少し前にも同僚に指摘されたばかりだ。一口に緑色と言っても、淡い色もあれば濃い色もあったり、ターコイズブルーに近いような色もあって様々だけれども、確かに私はここのところ、ミドリちゃんかというくらい緑づいている。

あと数日で、家族ともいうべき人たちに会うためにアイルランドへ発つのだと話したら、
「アイルランドといえば緑の国ですものね」
と彼女は言った。

imageアイルランドへ出発する前日、昼食に池袋にある全国のインスタントラーメンを揃えている店で買った「エイリアンラーメン」を食べることにした。買うつもりはなかったのに、昭和のホラー漫画みたいなパッケージと、“スープがまるで泥汁のような”という紹介文が気になって買ってしまったのだった。冷蔵庫に残っていた卵と一緒に麺をゆで、スープの粉を入れたら濃い緑色になった。抹茶のような鮮やかさはなく、どろっとした藻のような緑色である。ひゃー、ラーメンまで緑だよ、どんだけ〜となかば引き気味に汁をすすってみると、これが美味であった。ワラスボとかいう耳慣れぬ生物からとったという、まったりとした深い甘みのある魚介だしが効いている。パッケージに描かれているナマズの化け物のようなのがワラスボらしい。カニといい、あんこうといい、こういうグロテスクな魚介類はいい味を出すものだ。エライ。ちょっとの間ラーメンとはオサラバだなと思いながらエイリアンラーメンの緑の汁を飲み干した。

さて、出発の日がやってきた。朝5時半に起きてケータイをチェックすると、Facebookからタグづけされたと通知が届いていた。ローナンが「僕のジャパニーズシスターがやって来る!」と書き込んでいた。2日前にはローナンの母親であるヘレンが空港まで迎えに行くからねと電話をくれた。待ってくれている人がいるというのはうれしいものだ。

着替えて鏡を覗いたら、そこには緑色は見当たらなかった。ガウチョパンツのグレーの色が、曇ったアイルランドの空の色みたいだと思った。

玄関に向かい、パッキングを済ませて玄関に置いておいたスーツケースを見て笑いがこぼれた。よく見たら、弟から借りたスーツケースはビリジアンのような濃い緑色をしていた。やっぱり緑づいているな、私。たぶん、求めているからだろう。そんなわけで私はアイルランドヘ行く。