3月2016

ノルウェイの森とNorwegian Wood

フグレンとウキョウ代々木にあるノルウェイ発のカフェ、フグレントウキョウで友だちと待ち合わせをした。ウッディな印象で、外壁に密着したベンチと小さなテーブルが等間隔で置かれていてテラス席のようになっている。平日の昼間だというのに、雑談にふける人たちやパソコンを持ち込んでなにやら作業をしている人たちで込み合っていた。なかなか洒落たカフェだった。 

友だちとサヨナラしたあと、ノルウェイつながりでビートルズの曲「ノルウェイの森」について考えた。村上春樹の小説のタイトルにもなっている。冒頭で主人公が乗った飛行機からあの曲が流れるのだったかな。音楽に詳しくない私でも、この曲は数えきれないほど耳にしてきた。「ノルウェイの森」 というタイトルもあって幻想的なイメージを漠然と抱いていたのだけれど、今やあの邦題は誤訳とされているらしい。普段、音楽を聴くとき歌詞のことは深く考えないのだけれど、興味がわいて、この曲の歌詞をひもといてみることにした。

原題はNorwegian Wood。確かにこれはノルウェイの森のことではない。おそらくノルウェイ産の木材のことだ。ポール・マッカートニーの言葉を借りれば、いわゆるチープなパイン材のことである。でも邦題が「ノルウェイの木材」じゃあかっこわるい。「ノルウェイの森」というタイトル自体は趣があってとてもステキだし、誤訳うんぬん関係なく、それはそれでいいんじゃないだろうかと思うのが正直なところだ。でもまあ、本来の意を汲むならば、最近多く使われている原題そのままの『ノーウェジアン・ウッド』 (ノルウェイジャンよりも、こっちの表記が広く使われているようだ)とするというのが妥当なところだろう。

副題にThis Bird Has Flownとついている。「鳥は飛んでった」ということだけれど、bird は girlを意味する。これはつまり女の子に逃げられてしまった男の歌なのだ。

そもそもこの曲は、ジョン・レノンの情事を歌にしたと言われている。ポール・マッカートニーによれば、最初の2行だけがジョンのなかで出来上がっていた。その後に続くストーリーが浮かんで、それを歌詞にしたらしい。

I once had a girl ちょっと親しくなった女の子がいた
Or should I say she once had me 彼女にしてやられたって感じかな

普通に解釈すると、I once had a girlは「僕にはかつて恋人がいた」となる。でも、あとの歌詞を考慮すると、モノにしようとした女の子がいた、ぐらいの感じかなと思う。2行目の「それとも“she once had me” と言ったほうがいいかもな」という言い方は、she played me. (彼女にしてやられた)と言うニュアンスも含んでいるように思う。関係性のイニシアチブは彼女が握っていることがわかる。

She showed me her room 彼女は僕に部屋を見せてくれた 

彼女は“僕”を部屋に入れたわけだけれども、ここから察するに、“僕”にとって彼女の部屋を訪れるのは初めてなのだろう。

Isn’t it good, Norwegian wood? ねえ、ステキでしょ? ノルウェイの木なのよ

これは、多分彼女のセリフだ。彼女の部屋はノルウェイの木で内装されているのだ。

タイトルにもなっているNorweigian woodについて、村上春樹がエッセイの中である逸話を紹介している。ジョージ・ハリソンのマネージメントをしているオフィスで働くアメリカ人女性から聞いた話だそうだが、実はもとのタイトルは “Knowing she would” だったというのだ。もしそうなら、Isn’t it great, knowing she would?は、彼女ではなくて“僕”のセリフになる。「彼女がヤラせてくれるってわかってるってステキだよな」というニュアンス。けれどもそんなタイトルはけしからんとレコード会社が文句をつけた。そこで語呂合わせのようにしてジョン・レノンがNorwegian woodという語句を思いついてタイトルにしたのだそうだ。

実際のところ、ジョン自身はタイトルの由来を思い出せないと述べている。一方でポールは、当時ノルウェイ産の木材、前述したパインの木を使った内装が流行っていたのだけれど、Cheap Pineというタイトルではイケていないから、この曲名にしたのだと語っている。でも、今でも“knowing she would”説はファンの間で根強くあるようだ。真相は謎である。だからこそ人々のイマジネーションがかき立てられるのだろう。

She asked me to stay 彼女は泊まっていってと言った

And she told me to sit anywhere 好きなところに座ってと言うから

So I looked around 周りを見回してみたけれど

And I noticed there wasn’t a chair 椅子はひとつもなかった。

なんだそりゃ、とツッコミたくなるのは私だけだろうか。日本家屋をイメージすると違和感がないかもしれないが、舞台は西洋のおうちだ。座れと言われても椅子がないという状況はいささか妙ちきりんなのだろう。ナンセンスな感じが滑稽に思えて、私はこのくだりが結構好きである。

I sat on rug, biding my time 僕はラグの上に座ってチャンスをうかがった

bide one’s timeは、「好機を待つ」とか「機が熟するのを待つ」という意味合いがある。 椅子がないから仕方なくラグに腰を下ろした“僕”の下心がひしひと伝わってくる一行である。

Drinking her wine ワインを飲みながら

We talked until two 僕たちは2時まで話をした

And then she said, “ It’s time for bed” そこで彼女が言った “もう寝る時間よ”

1時でもなく3時でもなく、2時なんだなあ。なんだろう、この2時に漂うスペシャル感は。もう日付は変わっているけれども、まだ新しい日は動き出していなくて、去ったはずの昨日の余韻がとっぷりと感じられるそんな夜の時間。それは彼女の一言で幕引きとなる。

She told me she worked in the morning 朝から仕事があるのよと彼女は言い

And started to laugh 笑い出した

I told her I didn’t 僕はないよと彼女に告げて

And crawled off to sleep in the bath バスルームで寝るために仕方なくその場を離れた

clawlは「這う」という意味があるけれど、実際芋虫のように這ったわけではない。もくろみが外れてがっかりした“僕”がすごすごとバスルームへと向かう様子が表れている。“僕”は彼女に敗北を喫したのだ。小悪魔キャラかなんなのか、したたかな女だ。映画なんかで時折こんな感じの女が出てくるが(蒼井優が演じそうだ…。)、多分友だちにはなれないと思う。ちょっぴり、“僕”が気の毒である。それにしても、どうしてバスルームで寝るのかとイギリス人に尋ねてみたところ、床で寝るよりもあの細長いバスタブのほうが寝心地がいい場合があるんだよ、とのことだった。

And when I awoke I was alone 目覚めると僕は独りだった

This bird has flown 鳥は飛び立っていた

“僕”が目を覚ますと、彼女が家を出たあとだった。家に他人をおいて出掛けてしまうんだと驚いてしまう。ふぅむ、彼女ってどういう神経をしているんだろうか。それとも2人の間には私が思った以上の親密な関係性があるんだろうかと疑問がわかないでもないが、とにかく彼は独り部屋に残されてしまったわけだ。

So I lit a fire だから僕は火をつけた

ここの一行の解釈の仕方で、この歌のイメージが大きく変わる。「タバコに火をつけた」とか「暖炉に火をつけた」と思う人もいるようだ。私も最初はそうなのかと思った。狙った女の子に袖にされた“僕”がタバコをふかしながら、あるいは暖をとりながら部屋を眺める。そして彼女の「ねえ、ステキでしょ? ノルウェイの木なのよ」というセリフがリフレインする、というアンニュイな青春ドラマのような色合いを帯びたエンディング。けれども、実のところは違う。あえてそうしなかったとポールも言っている。“僕”はノルウェイの木で内装された彼女の部屋に火を放ったのだ。その気にさせておきながら男をバスルームで寝させた女へのリベンジとして、Norwegian woodを燃やすというアイデアをふざけ半分で思いついた、とポールはインタビューで語っている。

Isn’t it good, Norwegian wood? ステキじゃないか、ノルウェイの木ってさ

だから、この最後のセリフは “僕”のものだろうと思う。よく燃えているのであろうノルウェイの木を見て、彼は彼女と同じセリフを言うのだ。

勝手に幻想的なイメージを抱いていたが、ふたを開けてみればクレイジーな歌だった。ヤレると思ったのにあてが外れた男のリベンジの歌なのだから。コケにされて悔しい気持ちはわかるけど燃やしちゃうってどうよ……。あけてびっくり玉手箱とはこのことだ(って古いか……)。

フグレントウキョウを訪れてから数日間、あれやこれやとこの歌について思いを巡らせていて、“僕”は彼女と恋人ではなかったみたいなのになぜ、 I once had a girlなんて言ったのかしらなんていう質問をイギリス人の同僚にぶつけたりした。それは多分、そのほうが語感がいいからだよ、深い意味はないさ、歌詞なんてそんなものだよと、彼は言った。そしてハーイと挨拶するたび、まだNorwegian Woodのことで頭を悩ませているのかい、なんてからかわれたりした。うん、と私が笑って答えると、そりゃクレイジーだな、と彼は笑った。でも私としてはそのクレイジーなのが楽しかった。ノルウェイの木材で内装された椅子のない彼女の部屋や、午前2時を迎えるまでの“僕”の様子や、朝起きたときの”僕”を想像するのは、なかなか面白かった。部屋を燃やされた彼女はどんな反応を見せるのだろうか。いや、すべては“僕”の妄想かもしれない。

もちろん、私とは違う解釈をする人もいるだろう。曲というのは、聴き手がいつどこでどんな心境でそれを耳にしたのかによって印象や思い入れが異なるものだ。呼び起こされる光景やイメージだって異なる。ジョンは3行目以降はポールが作ったと認めておきながら、後年、あの曲は完全に自身の手によるものだと前言を翻すような発言をしているし、ポールがインタビューで語ったことが全ての真実とは限らない。だからこそ Norwegian Woodという曲について、今でもいろんな人がいろんな思いを巡らせていろいろな解釈をしているのだろう。その意味で、この『ノルウェイの森』と名付けられた曲Norwegian Woodはある種のファンタジー(幻想)なんじゃないだろうかなんてことを、あのメロディを聴きながら思った次第である。

ももちゃん

従妹の娘に、ももちゃんという子がいる。生まれたての頃に見たきり時間が経って、次に会った時は2歳になっていた。「こんにちは」と挨拶すると、「ねえ、わたし、かわいいでしょ?」というのが、ももちゃんの第一声であった。確かにももちゃんは目がぱっちりして、まつ毛もしっかりとして長くてかわいかったが、白雪姫の継母ばりのうぬぼれの強さに驚いた。近頃の子どもはやっぱり違うんだなぁと舌を巻いた。

140351  先日福島に帰省したとき、久しぶりにももちゃんに会う機会があった。ももちゃんは3歳になっていた。家にお邪魔をすると、大きなテレビの前でアニメの『アンパンマン』に釘付けになっているももちゃんがいた。さすがに画面に近すぎるだろうと思って、「ももちゃん、もうちょっと離れて見たほうがいいよ」と抱き寄せた。すると意識がこっちに向いたようで、私から一旦離れ一冊の本を抱えて戻ってきた。それもアンパンマンの本だった。私のことは記憶にないようだったが、人見知りはしない性格のようだ。ももちゃんは本を開いて見せると言った。

「ねえ、おねえさんは、どれが好き?」

 おねえさん!? やるねぇ、キミ。合格!ってなわけで、ももちゃん株急上昇である。なんともできる子ではないか。もしかしたら、私がいい歳をしてLaundryのキャラクターTシャツを着ていたからかもしれないけれど。ご機嫌な私は答えた。

「そうだなあ、おねえさんはハンサムだから食パンマンが好きかな。でも、助けてもらうなら、お腹すいてるだろうし天丼マンがいいよね。食パンだと口の中がパッサパサになっちゃうしさ」

「……」

 情報過多だったようである。ももちゃんは私の話をスルーして、自分の世界に入ってしまった。

 いただいたお茶をすすっていると、しばらくしてももちゃんがまた近づいてきた。どこから手に入れたのか今度は一本の羽を持っていた。それを見せながらももちゃんは言った。

「これはね、鳥の羽なの。羽があるから鳥は飛べるんだよ」

 ロマンじゃんと思って、3歳女子に尋ねてみた。

「ももちゃんにも羽があるのかな。ももちゃんも飛べるの?」

 するとももちゃんは、キョトンとして私を諭すように答えた。

「飛べないよ。ひとは飛べないんだよ、羽がないんだから」

 おねえさん、そんなことも知らないのね、みたいな顔で。
 
 げ、現実的。ワァオと驚いていると、ももちゃんは続けた。

「あとはね、飛べるのはアンパンマンだけだよ」

 おねえさん、知らないみたいだから教えてあげるね、みたいな顔で。

 はい、ファンタジーいただきましたぁってな気持ちになって顔がゆるんだ。だから、アイツ、あんぱんだぜ、とは言わないでおいた。

 福島に帰ったある日の昼下がり、私は3歳の子どものなかに現実とファンタジーの融合を見たのであった。そうやって、ひとは幼いうちから現実を知り、一方で夢をみて、いろんな矛盾を自分のうちに抱きながら生きていくのだなあと思った。

おばちゃん問題

ある休日、用事が早めにすんで家の最寄り駅についた。春めいてきて暖かかったのでそのまま近くの公園に足を向け、ベンチに腰をおろしてグラウンドで遊んでいる子どもたちを眺めていた。

 catchball_friends 目の前に、キャッチボールをしている男の子2人組がいた。小学4〜5年生ぐらいだと思う。ひとりはキャッチャーミットを持っていた。そのうちもうひとりがピッチャーが投げ込むような体勢でボールを投げ出したので、バッテリーを組んでいるんだろうと思った。

 少年が取り損ねたボールがワンバウンドしてこっちに飛んできて、ベンチの横をかすめていった。それほど危ない距離でもなかったのに、うっと一瞬ひるんだ自分に、ああ、私も鈍くなったもんだなと思った。少年たちは、私に「さーせんっ」と頭を下げて戻っていくとキャッチボールを再開した。しっかりしてるねえと好感が持てた。私も子どもの頃、私も父や兄たちとキャッチボールをよくやっていたものだ。

 ふと、彼らに声をかけてみようかと思ったものの躊躇してしまった。というのも自分を何と呼んだらいいか分からなかったからだった。「おねえちゃんもねえ」と言ったらいいか、「おばちゃんもねえ」と切り出すべきか、そんなことで戸惑ってしまった。そのうち2人はキャッチボールを切り上げて、公園から去って行った。

 おねえちゃんもねえ、と言うのも厚かましいような気もする一方で、おばちゃんもねえ、と言うのにはどうも抵抗があった。正直に言おう。40を過ぎた今でも、私は自分をおばちゃんと呼ぶのに抵抗がある。私よりだいぶ若いアラサーの同僚なんて、自分を平気でおばちゃんと呼ぶ。といっても、本人は実はそう思っていないのは明らかだけれども。一方私は、おばちゃんと言われる年齢であることも自覚していて、美魔女を目指しているわけでもないし、歳を聞かれても「いくつだと思う?」と相手にとって面倒くさいであろう質問返しは決してせず、潔く即答することをモットーとしている。それでも自分をおばちゃんと呼ぶことには、なぜか拒否反応を示してしまうのだ。

 どうも私のなかのおばちゃんは、ちびまるこちゃんのお母さんのようなイメージがある。おばちゃんパーマをかけてかっぽうぎを着たおばちゃん。大阪でいえば、パンチパーマをかけてヒョウ柄を超えてヒョウの顔がついたトレーナーにスパッツをはいたおばはん。どうも、そういうおばちゃんとひとくくりになってしまう感じに抵抗があるみたいだ。シロクマのトレーナーは着られても、ヒョウはまだ私には恐れ多すぎます…みたいな力不足さえ感じる。

 05122640代でも50代でも60代でも70代でもおばちゃんと呼ばれることを考えると(巣鴨の地蔵通りではすべておねえさんと呼ばれるが。)、おばちゃんのくくりは広すぎやしないか。そもそも、おばさん、おばちゃんといったバリエーションしかないのも私の抵抗感の要因ではないかと思う。男の人はというと、こんなことには無頓着なようなように見えるし、おっさんとオヤジがあるだけバリエーションも多くてマシなような気がする。それに、ちょいワルオヤジというとクールなイメージなのに、ちょいワルおばちゃんってイケてない。おばちゃんパーマをかけたおばちゃんがママチャリを爆走させているイメージが浮かぶではないか…。

 ああ、そうか、と膝を打つ。いわゆるクールなアラフォー女性をイメージする総称として最近流行ったのが、「オトナ女子」ってやつだ。いつまでも若々しく輝く女性ってことなのであろうが、これを勘違いした作法を身につけている女は「こどもおばさん」と揶揄されるのである…。つくづく女ってめんどくさいなと思う。そして、多分そんなことを考えている私もある意味めんどくさいのかもしれない。

 「私はね〜」で話しかけるという線も考えてみたが、それも自我が全面に出ている気がしてしまってしっくりこなかった。「おねえちゃん」なのか「おばちゃん」なのかで迷ったのは、多分だけれど、無意識のうちに子どもという存在に対して自分の社会的役割みたいなものを探っていたのだろう。そういう意味で、私に子どもがいたら、自分をおばちゃんということには抵抗がないだろうと思う。「◯◯ちゃんのおばちゃん」という役割をやすやすと担うことだろう。役割というか立ち位置というべきか。でも、それが今はビミョーなのである。

 春先の公園で、そんな思いを巡らせる私は、ミッドライフクライシスにおちいっているアラフォーの女である。

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