5月2014

泥のついていない一万円札

名作ドラマ『北の国から』の涙なくしては見られない名シーンの1つが、主人公の純が東京に旅立つシーン。そこに、泥のついた一万円札が登場する。

純をトラックに乗せた運転手が、フロントガラスの前に置かれた封筒をあごで指す。それは、純の父親の五郎が渡した金だった。運転手は、自分にはとても受け取れない。だから、それはお前が記念に一生持っていろ、と純に言うのだ。純が手にした封筒に入っていた2枚の一万円札には、父親の手についていたであろう泥がついている。父が必死に稼いだお金。それを見て、純は涙を流すのだ。

bills私にも使えない一万円札がある。

父が 60歳で定年退職したときに家族でお祝いをした食事の席で、父が私たち兄弟に封筒を渡してくれた。ひとりひとりの名前が筆で書かれた封筒には一万円札が2枚ずつ入っていた。最後の給料から私たちにもおすそわけ、ということだった。

父はもう70を超えたから、10年以上も前のことになる。なんだか使うのがしのびなくて、今でもそのお札を使うことができずにとってある。「今月、厳しいなあ」という金欠のときでも、父にものすごく腹を立てて憎らしく思ったときでも、それには手をつけずにここまできた。今や封をするために貼られていたセロテープは粘着力を失って、はがれ落ちたあとが茶色くなっている。

きっと、兄も弟も同じなのだろうと思っていた。ところが数年前に実家に兄弟で集まって話していたときのこと。「お父さんからもらったあのお札、使えないよね」と同意を求めたら、「え!? すごいね、まだ持ってるんだ」とすごく驚かれた。兄も弟も、速攻で使ってしまったらしい。まったくもって、現金である。

泥もついていないし、番号がゾロ目なわけでもない。他のお札と混ざってしまったら見分けがつかなくなるであろうごく普通の一万円札なのだが、私はやっぱりまだ使えないのである。

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おとなの階段

朝起きて、テレビのスイッチを入れたら、どのワイドショーも同じ話題でもちきりだった。スターが容疑者になったニュース。私はそれを複雑な思いで見る。

小学生の頃、私は『なかよし』ではなく『りぼん』派で、毎月その漫画雑誌の発売日が楽しみだった。子どもにとって1ヶ月は長い。その月の号を入手したら、連載漫画を読み、雑誌の付録を組み立て、懸賞に応募し、投稿ページなど細部にも目を通し、繰り返し連載漫画を読み、次の発売日を心待ちに1ヶ月を乗り切るのだ。 

064931ところが、ある日、いつものように発売日に入手した『りぼん』がすこしも面白いと思えなかった。それは本当に突然のことで、ページをめくってもめくっても、先月までは確かにあったはずの感覚は戻ってこないのだった。ちょっと悲しい気持ちになって、ああ、私、おとなになっちゃった、と思ったのを今でも覚えている。おとなになるっていうのは、ちょっとつまらないことなのかもしれないとも思った。おとなの階段を一段のぼった瞬間。そして、私は『りぼん』を卒業した。

それから、数年後。CHAGE&ASKAが「SAY YES」のヒットを飛ばした頃。特にASKAは甘いルックスでソロでもヒット曲を出し、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。メインで歌っているのはASKAだったから、音楽のことを何にも知らない子どもの私は、CHAGEって必要なわけ?なんて、不遜な疑問を抱いてしまったのである。

だけど、しばらくたったある日、経緯は忘れてしまったのだが、 CHAGEは必要、いや、むしろCHAGEがあってこそなんだ!と強烈に思い知った。そして、あの感覚を覚えた。私、おとなになっちゃった、という感覚。でも、その時は、分からなかったことが分かるようになった、見えていないことが見えるようになったという、ちょっと誇らしい気持ちがあった。階段をさらに一段のぼった瞬間。そのとき、CHAGE&ASKAは素晴らしきデュオだった。

それから何段のぼったのか、階段が果たしてどこまで続くのか分からない。でも、のぼるたびに、感じていたことが感じられなくなったり、気づけなかったことを気づけるようになったり、おとなになる過程というのは複雑だ。真っ直ぐのぼっているつもりが、回り道をしていたりするのかもしれないし。

Chageが、ASKAには自分を大切にしてほしい、とコメントを出していた。なんだか胸が痛む。

私には直接かかわりのない世界で起こっていること。子どもの時のことを思い出したりしながら、私はそれを複雑な思いで見る。

 

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母と子と

母と子と1少し前に帰省したとき、祖父が倒れてICUに入ったと聞かされた。祖父は今年87歳になる。数年前に病気を患って以来、元気にはなっていたけれど、歳のこともあり、いつ何が起こってもおかしくはない状態だった。

医師からは、もしもの場合の延命処置をするかどうかの判断を家族で決めてくださいと言われたそうで、母の姉弟たちが集まって話し合いがおこなわれた。私はそれが終わるのを、居間で従姉と待っていた。

日頃からできるだけのことはしたいといって、祖父の病院の送り迎えなどをしていた母は、いざというときの覚悟はしていると私に何度か言ったことがある。そう言うたびに、いつも目を赤くしていた。

母の実家は東北の小さな農家だったから、決して裕福ではなかった。祖父が出稼ぎをして学校を出してくれたのだと、母から何度も聞かされていた。祖父は口数は少なく、とにかく働き者だった。太陽とともに起きてもくもくと畑仕事をし、10時には昼食をとり、夜は早くに寝る。病気を患うまでは、そんなライフスタイルだった。

私たち孫は、幼い頃から祖父にはかわいがってもらった。祖父が働いていた牛舎にいって牛たちにえさをやったこととか、クワガタを捕りに連れていってもらったこととか、田植えや稲刈りの時期に田んぼへ遊びにいったりしていたことが思い出に残っている。私が大人になってからは、「じいちゃん、私がお嫁にいくまで元気でいてね」「いつ嫁にいくんだ?」というのが祖父と私のお決まりの挨拶のようになっていた。

祖父が入院したと聞いてショックだったが、話し合いが終わるのを待つ間、私はとても冷静だった。祖父は死なないだろうと感じていたからだ。なぜだかわからないが直感めいた確信があった。

話し合いは結論がでないままお開きになった。みんな泣いていた。母の妹たちは、まだお別れをする心の準備ができていないといって泣いていた。今の自分にも親を失うことは耐えられないが、自分の家庭を持って50を過ぎても、60を過ぎても、親と別れることは、やはり平気ではいられないことなんだと胸が痛かった。でも一方で、じいちゃんは死なないよ、とも思っていた。 

とにかく直接手をあててタマラヒーリングをしてあげたかったから、母と一緒にICUにいる祖父に会いにいった。何段階かの手続きをすませてICUに入っていくと、たくさんのチューブにつながれた祖父がベッドに横たわっていた。大丈夫と思っていたけれど、予想外に細く、小さく、こどものような姿に涙が出そうになった。

「じいちゃん、来たよ」と声をかけると、祖父はうなずいた。面会時間は10分と言われていたので、すぐに祖父の胸と頭に手をあててタマラのエネルギ—を流した。そして、弱っているけれど、祖父にまだまだ生命力があることを直感して安心した。「じいちゃん、エネルギ—流してるんだけど感じる?」と聞くと、意外にも祖父は、こくりとうなずいた。

時々、祖父が言葉を発するが、酸素マスクをしているのと入れ歯を外しているのとであまり理解してあげられないのだった。水を飲みたいかと聞くとうなずくので、看護師さんに頼んで、水をスポイトで飲ませてもらったが、それを見て胸が痛くなった。だから、私はお決まりの文句を言った。「じいちゃん、私まだ嫁に行ってないんだから、元気になってもらわなきゃ」

そうしたら、祖父が酸素マスクをしたまま「いつ嫁に・・・」と言いかけ、その瞬間に祖父とチューブでつながっていた機械がピーピーと激しい音をたてた。あわてて、看護師さん、看護師さん!と助けを求めると、看護師は慣れた感じで「酸素マスクしているので勢いよく話そうとすると鳴っちゃうんですよ」と言い、だから、あんまりしゃべらせないでくださいね、という雰囲気をかもしだすのだった。私は、ほっと胸をなでおろした。いやあ、焦った。

結局25分ほどヒーリングすることができた。母と私は看護師さんに、のどが乾かないうちに水を飲ませてやってくださいと何度も何度も頭を下げて、病院をあとにした。

帰りの車の中で、私は母に「じいちゃんは、死なないと思う。まだまだ生命力があるから」と言い、あることを告げた。「なんかね、あのオトメさんだっけ?あの人が守っているような気がするんだよ」

オトメさんというのは、祖父の母親だ。祖父が幼いときに亡くなり、長男だった祖父は相当苦労したと聞いている。むろん、私も母も、そのひとに会ったことはなく、祖父の家に飾られている白黒の写真で見たことしかない。ただ、ふとその写真が頭に浮かんだのだった。

翌日、祖父が一般病棟に移ったと連絡がきた。親戚一同がびっくりして、いっせいにエネルギ—が効いた、すごいね、というのだった。 

甥っ子たちを連れて帰省した兄と一緒に、母と私は再び見舞いにいった。祖父は私たちの姿を見て、ありがとう、ありがとう、と言いながら手を叩いて喜んだ。まだ水を飲むのもつらそうだったし、記憶も長くは続かないようだったけれど、祖父は前回よりも確実に元気になっていた。またエネルギ—流すね、といってヒーリングをしたら、祖父は黙って宙を見つめていた。エネルギ—を感じる?と聞くと、横に首を振る。あら、この間は感じるって言ったじゃない、と言うと、この間は感じた、と言う。それでいい。空っぽの状態だったのが、活力が満ちてきたってことなんだろう。

母と子と2「おうちに帰りたいなあ」と祖父は子どものような表情を浮かべて言った。そこに、ひとの生きる意欲、というのを感じて驚嘆した。祖父の人生は、私が知りうる限りでも、決して楽なものではなかったはずだ。それでも、生きよう、生きたいと思えるひとの強さみたいなものを見せられた気がした。エネルギーだけでなく、何よりも祖父の生きようとする思いが、ここまでの回復に導いたのだと思った。

「元気になって帰ろう」と私は言った。
「オトメさんが守ってくれてるから大丈夫。よくなるよ」と母も言った。すると祖父が、つぶやいた。

「母ちゃんに、まだこっちにきちゃだめだって帰された」

驚いた私と母は、顔を上げて見つめあった。

ひ孫までいる祖父だけれど、いくつになっても祖父はオトメさんの息子なのだ。そして、あの世へいってしまっても、祖父がいくつになっても、オトメさんは母であり、子を思い続けているのだろう。母と子のつながりというものをまさか祖父とオトメさんに見せられるとは思わなかった。 

祖父が回復を見せていることに安心した私たちは、途中で食事をすませて帰ることにした。甥っ子たちのリクエストで、ハンバーグを売りにしているレストランに寄った。甥っ子たちに負けず劣らずのがっつり系のメニューを注文したあと、もうすぐ不惑になる私は、ビールのジョッキ片手に母に泣きついた。「お母さん、あたしさあ、やせたいのよ。でも食べたいのよ」

「何かは犠牲にしなくちゃいけないんじゃないの」

母は私を諭すようにやさしく言った。まるで『泣いた赤おに』の青おにみたいに。

母というのは、何と大きく深いのだろう。

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